蜜の手



 どさっと何かが落ちる音。はそれを確かめるべく立ち上がったが、襖の向こうから 声が掛かったのでやめた。おけいである。

「姫さま、お客様です」
「どちら」

 は障子から襖に視線を戻す。近頃は朝方も冷えるので、廊下で座っているおけいを 気遣って中に入れてやろうかと思ったその時であった。

「……」
「なにがおかしいの?」

 襖の向こうでくすくす笑うおけいに、はいささか機嫌を損ねながら尋ねた。それで も彼女の笑いは止まらない。

「姫さま、そんなに怖い顔をなさらないでくださいな。笑わないといけませんわ」
「誰のせいだと思ってるの」

 うふふ、とおけいは笑う。そして片倉さまです、と一言告げて黙り込んだ。どう言い返 してやろうかと言葉を捜していたは、虚を付かれてぐっと息が詰る。おけいと話すと きはいつもこうだ。たとえ彼女の言わんとしている事が分っていても、何時もいいように やりくるめられてしまう。生きている年数が違うのですわ、といわれるたびに、二つ三つ しか違わないではないかという言い訳が頭をよぎる。

「……」
「笑顔ですわ、笑顔!」

 やたらと元気なその声には思わず叫んでいた。

「おだまりっ」


***


「失礼いたす」
「どうぞ」

 すっと襖が開かれる。片倉小十郎は中を少し窺って、と目を合わせた。

「お入りなさいな」
「は」

 畳の上をにじって入ると、横に置いておいた籠を持って立ち上がる。畑のはずれに植え てある柿だった。飛び交う鳥どもに啄ばまれた柿が甘い香りを漂わせていたので、手土産 に持って来たのである。

「あら、それは」
「柿でございます」
「もうそんな時期ですか」

 はしばらく籠を見つめてから、ゆっくりと小十郎に視線を戻す。さほど寒くは無い のにぴったりと閉じられている障子を見れば、やはりこの方はお体が丈夫でないのだなと 再確認する。

「あなたの畑のものですか?」
「はい」
「そういえば…最後に伺ったのはいつだったかしら」
「?」

 柿と小十郎の間で視線を彷徨わせるを見ながら、言葉に詰った。

「あなたの畑に行ったことですよ」
「あ、ええ…」

 彼女が幼い時は畑というほどの物ではなく、庭に花ではない物を植えている程度であっ たのだが、この姫君はそんなことまで覚えているらしい。あの時の庭とモノの出来具合を 思い出すと、なんとも気恥ずかしい。

「あの時はまだ畑という広さではありませんでした」
「そう…そうですね。お花の横に、大根やらねぎやらが植えてあったときは驚きましたけ れど」

 お花の香りなんて分らなくって、ところころ笑うに、思わず頭が下がる。あの時は 植えることが楽しくて、横に何があるなどという事まで気が回らなかったのだ。あまりに 熱中するものだから、父母から離れに畑を作ってもらったのだが。

「でも、あれから大きな畑に変わりましたね」
「そちらにも何度かお越しくださいましたな」
「ええ。とても楽しかった…土に触れるのも、野菜や木に触るのも初めてで」

 まだ背の低いと政宗を畑に招いたことは、しっかり脳裏に焼きついている。政宗は 野菜の出来具合を観察したり、木に登ったりで終始を驚かせっぱなしであった。彼女 は彼女で、何の臆面も無く土の匂いを嗅いだり、兄よろしく木に登ろうとしたりで自分を ひやひやさせたものだ。

「そういえば」
「はい」
「わたしが木に登ろうとして、あにさまやあなたが必死になって止めようとしたこともあ りましたね」
「ございました…心の臓が止まるかと思いました」
「そんな、大げさね」
「低い木ではございませぬ。落ちれば必ずお怪我を」

 頼むから、この年になってそんなことはしてくれるな、という意味もこめて、低い声で 言う。しかしそんな期待はすぐさま裏切られてしまった。

「今ならなんとかなるかしら」

 なんとか、とは何事か。散歩ぐらいしかろくに動かない彼女が、木登りなどという絶妙 な均衡と力加減を要するものをこなせる訳が無い。期待の眼差しすらこちらに差し向けな がら、はどうかしら、と笑いかけてきた。

「ご遠慮いたします」
「身軽になって、背の低い木なら……そうよ、庭の木ならなんとかなるんじゃないかしら」

 ついと視線を障子にやると、は何かに気づいたようにぽんと手を打った。

「そう、そう。さっき庭から音がしたの」
「音にございますか?」
「ええ。何かが落ちる音」

 最悪の状況を予測して、眉間に皺を寄せると、に断りを入れて障子を開いた。何か が居る気配は無い。とりあえず一息つくと、振り返ってを見る。しばらく庭を見てい た彼女が、あ、と声を発した。

「小十郎、あれじゃないかしら」
「は?」

 白い手が指す向こうには、鳥に啄ばまれて落ちたのであろう柿が二つ三つ。今も小鳥が 嘴を差し込んでいる。綺麗に熟してはいるが、少々崩れすぎているようにも見えた。

「柿が落ちた音だったのですね」
「そのようですな」
「………」
「姫さま?」

 何かを逡巡しているに、一抹の不安を覚える。よもやあの木に登ろうなどと言うの では有るまいかと。

「小十郎」
「は」
「あの柿、わたしにも取れるでしょうか」

 ほら、やっぱり。頭の中を冷めた声が響く。わたくしが取って差し上げましょう、と出 なくてはならなかった言の葉が、の顔を見て喉の奥で止まった。まだいけませんとも 言っていないのに、件の残念そうな顔をしている。どうせ駄目だろうと思って頼んでいる のがありありと分る。ここで踏みとどまらなければ。もし何ぞあっては我が首が飛ぶだけ ではすまぬかも知れぬ。

「いえ、あの」
「あまり障子を開けてもいけないからとおけいから言われていたのだけれど…もうこんな になっていたのですね」

 おけいは体を壊してはいけないと、庭を眺めることもろくにさせてくれなかったらしい。 その判断は正しいのだが、そのためにこの姫君は季節を目で感じることが出来なくなって いる。

 おいたわしい。
 ただ一つ、柿を見ることすら自由に出来ないこの方たっての願いに、揺れてはならぬ心 が、それはもう思いっきり、ぐわんぐわんと音を立てて揺れている。

(いや、ならん…俺が取って差し上げれば良いこと)

「姫さま」
「はい?」
「わたしがお取りします。ですから」
「…」

 残念そうな笑顔が、顔全体に広がっていくようだった。

「では、小十郎が取った柿を、わたしが籠に入れます」

 それもだめか、と物言わぬの瞳が光る。木に登ることは諦めるが、庭に出ることは 諦めきれないらしい。少し出歩くぐらいなら、大したことは無い体である。庭に立って柿 を取るくらいなんともないだろう。

「……わかりました。しかし、何かあったらすぐにお伝えくだされ」
「立っているだけだもの。大丈夫」
「お約束くださいませ」
「わかりました。約束します」

 こくんと頷くと、はいそいそと縁側に出た。小十郎は彼女の草履を探し、そっと小 さな足に差し入れた。自分で履けます、と頭の上から声が掛かったが、気にせずもう片方 も履かせた。

 手を取って、五歩もあるけば柿の下になる。は籠を持って嬉しそうに枝にぶら下が っている柿を見た。少しお下がりを、と声を掛けて、軽く木によじ登る。するすると登る 自分を見て、はわあと歓声を上げた。なんとなく気持ちが良い。

「姫さま、受け取ってくださいよ」

 ぽいと柿を落とすと、は両の手でしっかり掴んだ。きゃっという声がする。
 
「いかがされました」
「柔らかくって…すこし崩れてしまいました」
「おや、お召し物は」
「大丈夫。すこし美味しそうな手になっただけです」
「左様でございますか」

 続けて幾つか取ると、も柿の扱いが上手くなってきて、ひょいひょいと籠に収めて いった。籠が一杯になったのを見て、木から降りる。手をべとべとにしたが、その手 を少し舐めていた。

「あ、お先に失礼」
「いえ…さぞかし甘い御手にございましょう」

 ふふふ、とは笑う。その表情には邪気が無い。艶かしい異性を惹き付ける様な仕 草はなく、ただただ毛づくろいをする猫のような可愛らしい仕草である。

「籠をお持ちいたしましょう」
「ありがとう」

 指先を舐め終えたは、縁側に腰を下ろした。その隣に座ると、甘い香りが鼻を掠め、 冷たい感触が手に触れた。

「?」
「きゃあ、ごめんなさい」

 柿で濡れた手を、自分の手の甲に重ねてしまったらしい。おろおろと懐紙を探すを 制し、彼女よろしくその手を舐めた。あっけに取られたように、がそれを見つめる。

「食べごろですね」
「…え、あ、ええ」
「姫さま、小柄はありまするか。柿を剥いて差し上げます」
「あ、こ、小柄ね。い、いま探します」

 べたべたの手のまま、は顔を真っ赤にして文机を漁った。





***後記***
大変遅くなりまして申し訳有りません。カヨコさまからのリクエスト『政宗の妹ヒロインと小十郎』でした!

カヨコさま、如何でしたでしょうか?
お姫さまがだんだん行動的になってまいりました(笑)はじめの病弱っぷりはもうどこかに消えてしまいそうです。
くっつくか、くっつかないか、もうくっついているのか、私の書くものは距離感があまり掴めない(と自分では思っている) のですが、ほのぼのした秋の一コマが伝わっていれば幸いです。

秋なので、少しでも季節感を出そうと思い……柿になりました。時期的には梨の方があっているのですが、いくらなんでも 庭に梨は植えないよなあ…という事で柿になりました。
私は東北の方の人間ではないので、柿をどのように食べていたかあまり分らずに書いてしまったのですが…
渋柿が多めで、十月下旬に収穫した物を、ゆっくり干して甘い干し柿にするものがメジャーっぽかったです。

昔なので、甘いものは貴重だったでしょうし、蜂屋柿という柿は、秀吉やら家康やらも大喜びして食べたそうです。
柿一つでも、さぞかし今よりもっと価値のあるものだったのかも知れません。


こんなものですが、どうぞお納めくだされvヒロイン名はご自由に変更くださいませ。
(カヨコさまに限り)煮るなり焼くなりスキにしてくださいね。

リクエストありがとうございました!