はじまりの日 夜通しの宴会が行われていた大広間から、侍女と共になんとか抜け出したは外の空 気を思い切り吸い込んで、吐いた。肺の奥まで冷え切った空気が染み込み、胸から顔にか けて纏わり付いていた甘ったるい空気が抜けた。 「姫さま、はよう戻らねば」 「ええ、そうね」 雪こそ積もっていないものの、肌を刺すような空気はじっとしているだけで体からどん どん温かさを奪ってしまう。風邪など引けば、皆に迷惑を掛けることになるし、なにより も危惧すべきは夫のことであった。 (わたくしが風邪を引いたら…元就さまはなんと仰るのかしら) 元就が自分を心配する様を想像してみたが、全くと言っていいほど思いつかなかった。 「姫さま…」 侍女が急かす様にかけた声に、ははっとして足を動かせ始めた。 (きっと、顔をお出しにもならないのだわ) 想像できないのはそのせいだ、と彼女は足早に部屋に帰った。 *** しばらくざわめきが聞こえていたの部屋も、大分静かになってきた。自分があそこ から抜け出したのは昨日の夜。空を見ればそこは赤く染まってきていて、太陽の到来を示 している。そっと手を合わせて、新しき年を迎えることが出来たことを感謝する。どうぞ 今年も、愛しい方がすこやかであられますようにという願いもこめて。 ふと、人の気配を感じては振り返った。すると、少し間があってから「入るぞ」と よく知った声がした。は居ずまいを正し、新年を寿ぐ。 「うむ」 声の主は音もなく彼女の隣に来ると、当たり前のように隣に座り「寒くは無いのか」と 言った。は言葉を発する代わりに障子を閉めた。無表情でそれを眺めていた元就は、 手に持っていた鈴を二三度鳴らした。襖が開き、すぐ閉じられる音がした。頸だけを後ろ に向けると、小さな盆に酒と杯が乗っていた。元就はが立ち上がって取りに行こうと するのをとどめ、ふわりと立ち上がると、滑るような動作でそれを引き寄せた。 「一献つかわす」 杯を差し出しながら、元就はを見た。は少し驚いた後、幸せそうな顔をして杯 を取った。 「ありがとうございます」 「うむ」 なみなみ注がれた酒を、は元就に目配せしてから飲んだ。元就は小さく頷いた。あ まり強いほうではないが、かといって全く飲めないわけでもない。飲み進めるうちにだん だん眠くなってくるという酔い方を、いつもしていた。 杯を盆に返すと、次はが元就に酒を注いだ。ほんの少し紅潮している頬と、こぼさ ないよう神経を使って震える手のひらを見て、元就は少し口元を緩めた。 「…うまいな」 「ほんとうに」 元就が飲み終えた杯をもう一度に差し出す。は再び酒を注いで、夫を見た。顔 色は特に悪くないが、少し疲れているように見える。連日連夜の大騒ぎで少し疲れている のかもしれない。心配そうな視線を送っていると、それに気付いた元就が片方の眉を上げ てこちらを見た。 「どうした」 「いえ」 「なんだ、申してみよ」 彼は全てを言葉に乗せること嫌う。 そのくせ、自分が知りたいと思ったことにはとことん首を突っ込まないと気がすまない という反面も持ち合わせていた。 が言葉を発さずにいると、元就は小さくため息をついて「気分でも悪いのか」と声 をかけた。 「さっき障子を開けていただろう。それで体が冷えたのではないか」 言いながら、元就はの手に触れた。そこはひんやりと冷たくて、酒を飲み続けてい た元就にとっては気持ちのよい温度だった。 「風邪でも引いたらどうする」 はどきりと心臓が跳ね上がった。反射的に叱られる、という考えが頭の中をよぎっ た。元就の顔が近づいてきて、は心臓が異様な速さで動いているのが分った。きゅっ と目を閉じると、いつもより温かい夫の手のひらが額に触れた。驚いて目を開けると、夫 が顔を覗きこむようにしてこちらを見ていた。いつの間にか、もう片方の手が、彼によっ て握られている。 「そなたが体を壊したら、我は誰に」 「だれに?」 がきょとんとした顔で鸚鵡返しをすると、元就はすっと目を細めてもう一度「だれ に」と言葉を発して、彼女の膝に頭を落とした。 「!…元就さま」 上手い具合に膝の上に乗った夫の顔を見れば、しっかり瞼を閉じている。よく見れば頬 は紅潮しており、触ると熱い。 (かなり酔っておいでだったのね) 広間にいるときは気を張って、酔いなど忘れていたのだろう。しかし、ここに来て、張 り詰めていた糸が切れてしまったのだ。 「お疲れ様でございます」 ふわふわの髪をそっと梳きながら、は打掛を取って、彼の体に掛けてやった。 ぴったり閉じた障子から微かに漏れ出た朝日が、ふたりを照らしていた。