今昔物語―垂り雪―
一面の銀世界。雪は音も無く降りつづけている。
は着込んだ着物の重さから、緩慢な動作で襖を少しだけ開ける。風は無く、ただ暗
い空と白い雪のみが見えた。このように雪が降る日は、あまり良いことが無いということ
をは知っている。それは、雪崩であったり、作物の収穫に影響が出るといったことで
はなく、彼女自身のことだ。
(あの日も…)
ほんの少し前、彼女がまだ少女であったころ、こうして一人で暇をもてあそんでいた時
に、ふいにあわられた訪問者によって彼女は心身に傷を負った。思い出すだけで、体の節
々が、胸の奥が、じくじく痛む。忘れようとしても思い出される悲劇、しかしそこには彼
女の愛する人もいて、今でも涙がこみ上げてくる。
(ひとりは、いや)
おけい、と侍女の名前を呼ぼうとしては止めた。こんな朝早くに居るはずが無いの
だ。仕方なく襖を閉めると、布団を頭まで被り、朝日が早く出てくることを祈る。
(わたくしは弱い…)
体の中心が疼いた。は体を丸くして、硬く眼を瞑った。
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「すげえ雪だな」
政宗は、足元の雪を少し蹴り上げて、白い息を吐いた。彼の後ろから、長身の男が「今
年はとくに酷いですな」と声をかける。
「雪合戦でもするか」
「お戯れを」
「冗談だ」
小十郎はは、と白い息を吐いて空を見た。鉛色のそれは、彼らを責めて立てるわけでも
気遣うわけでもなく、ただ、黙々と六花を落としている。
「姫さまは…」
「あん?」
小十郎の吐いた言葉が政宗に伝わると、彼は少し言いよどんで続けた。
「さぞお喜びでしょう」
「か…そうだな、去年は部屋から出もしなかったからな」
からだの弱い義妹を、政宗は大事にしていた。小さい頃から一緒だったし、自分を頼っ
てくれる所も可愛い。からだが弱いせいで、あまり外に出たことは無いが、偶の外出は後
ろの男が請け負ってくれている。
「しかし、この雪じゃあなぁ」
政宗がそう呟くと、小十郎は苦笑した。あの姫君は駄々をこねるということをしない代
わりに、思い通りに行かないととてつもなく残念そうな顔をするのだ。その顔の可哀相な
事といったらなかったが、それに乗せられて頸を縦に振ってはいけない。
「ご機嫌取りにいくかあ?」
「そうなさいませ」
「いんや、お前もだよ」
先を行く政宗の言葉に、小十郎はやれやれと肩をすくめた。
「はいるか」
「ええ、お部屋に」
おけいは二人を見て、愛想の良い笑いを浮かべた。何故この二人が来たのかを知ってい
る、という笑みだった。
「、おれだ」
声をかけて少し待つ。いつもならば細い声で「どうぞ」と帰ってくるはずなのだが、今
日は無い。政宗は小十郎と顔を見合わせた。
「お休みになられているのでは?」
「おれが行こう」
政宗が襖を少し開くと、小十郎はさっと後ろを向いた。
「、寝てるのか」
遠慮なく足を踏み入れると、冷たい空気が広がっていた。外を思うがあまり襖を開け放
って庭にでも出ているのだろうか。あの義妹は、自分が思っているより奔放な所があるの
で油断は出来ない。
「おい、」
普段が読み書きなどに使っている大きな部屋に彼女はいなかった。使っていた形跡
も無いから、ここには居なかったのだろう。
びゅう、と音がして、目の前の襖ががたがた鳴った。向こう側の障子が開いているらし
い。もう一度だけ声をかけると、政宗はその襖を開けた。
「!」
そこは彼女の寝室だったが、乱れた布団と開け放たれた障子、それに此処のあるはずの
無い水――雪が解けたものであろう――があった。
「?…っ」
政宗は少しの間絶句していたが、すぐに声を上げて彼女を探した。よく見れば、白い敷
布団の上に藁が散らばっている。雪避けの傘か何かから落ちたのだろうか。
「おい、どこだ。頼むから返事をしてくれ」
たちの悪いいたずらであって欲しい。そう思えば思うほど、政宗は冷静さを欠いた。襖
は全て開け放ち、畳まで持ち上げようとした。
「何をしておいでです!」
異変に気付いた小十郎が、政宗の奇行を咎めた。政宗は刹那動きを止めて、持ち上げよ
うと屈めていたからだを起こした。
「これは、一体…」
「小十郎…がいねえ」
政宗の絶望的な声音に、小十郎は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「!…なんですと」
「あれを、見ろ」
政宗は大またで寝室に戻ると、その荒れ様を小十郎に説明した。小十郎は大急ぎで縁側
に出ると、消えかかった足跡があった。
「政宗様、足跡が!」
寝室に放心したように突っ立ている政宗は、小十郎の叫びが聞こえなかったのか、ただ
白い布団に視線を投げ続けていた。
「政宗様、しっかりなさいませ!今からならまだ間に合います。私が後を追いますゆえ、
あなた様はこの事をおけいに…!」
「あ、ああ…すまん、おれとしたことが」
ふるふると頭を振って、政宗は小十郎を見た。そして「早く行け」と脇差を彼に差し出
しながら言った。
「承知!」
小十郎は、それをしっかり握って「馬を引け」と叫びながら、外へ飛び出した。
---
足跡を追い、小十郎はひたすら馬を鞭打った。降り続く雪はその勢いを強めこそすれ、
弱くはならなかった。追いかける足跡はもう彼の前には無い。しかし、彼はただまっすぐ
進んでいた。彼の前には、一本の道しか見えなかったのだ。
「姫さま、姫さま…!」
あのか弱い姫君は、今頃どうなっているのであろうか。抵抗するすべも無く、蹂躙され
ていてもおかしくない。
考えるだけで、小十郎は寒気と焦りが湧き出てきた。
―いったい誰が。
身内の者かも知れない、と小十郎は思った。彼女の美しさに魅せられて、かどわかした
という事がないとは言いきれない。今まで、に対する警備は手薄だった。侍従は皆彼
女を娘のように扱う者ばかりであったし、それは自分もそうだった。その甘さが、このよ
うなこと引き起こして仕舞ったのだろうか。
「いずこにっ」
白い雪は深深と降り積もる。小十郎は馬を走らせながら、ただ彼女の名前を呼び続けた。
「若さまっ」
「…どうした」
小十郎の帰りを待つ政宗は、走り寄ってきた男を見ながら言った。男は肩で息をしなが
ら、「姫さまをかどわかした…」と切れ切れに呟いた。
「何!」
「ひめ、さまのかどわかしを手伝った女を…連れて、まいりました…」
「よし、ここに」
男が振り返ると、後ろから鎧の男に連れられた、若い女が姿を現した。美人だが、きつ
そうな顔をしている。
「きさま…」
政宗ははらわたが煮えくり返る思いで彼女を睨んだ。対する女も、挑戦的な目つきで睨
み返した。
「若さま、いかがいたしましょう」
男が間に入ると、政宗は男のからだを押しのけて、女に言った。
「を、妹をどこにやった」
「さあ、知りませんね。あたしは姫さまに懸想してる馬鹿を案内しただけですから」
いまごろ宜しくやっていますよ、と女がのたまうと、政宗はこぶしを振り上げて殴ろう
としたが、すぐに腕を下ろした。
「ふうん、若さまは女はぶたないんですか」
くすりと笑った女は、鎧の男の腕を振り払った。
「おれは人しか殴らない」
政宗が女に言うと、女は激昂した。
「なんだって!あたしが人じゃないって言うのか。あんたの目は両方潰れてるんじゃない
のかい」
「喚くな。とりあえず聞いておく。何でこんな事をした」
「ふん、気に入らなかっただけですよ。姫さまなのに、部屋に男を引っ張り込んだりする
ところがね!」
女は、恐らく小十郎の事を言っているのだろう、と政宗は思った。確かに彼とは主
従の関係を超えて、兄妹のような親密な間柄だ。しかし、何故それがこの女をこのような
行為に走らせたのかは分らない。
「それだけか」
「ええ、そうですとも」
政宗は息を吐いた。そしてくるりと女に背を向けて歩き出した。
「なんだい、結局斬れないんじゃあないか」
女が嘲るように吼えると、政宗はもう一度息を吐いて、あきれたように言った。
「おめでたい奴だな。犬畜生は切り刻まれるか野垂れ死ぬのが運命だぜ」
政宗が女から遠ざかると、女が雪に倒れこむ音がした。
どれほどの時間が経っただろうか。
小十郎は林に足を踏み入れて、辺りを捜索していた。しかし、手がかりらしいものは何
一つとしてなく、やみくもに探し回っているという状況だった。
「くそっ」
さっきまで暗かった空は、向こうのほうからゆっくりと白んできている。朝が来るのだ。
そうなれば、すこしは探しやすくなる。しかし、それを待ってはいられない。
「ん?」
向こうの方に、小さなあばら家が見える。小十郎はそろそろ限界に達して来ている馬か
ら下りると、手綱を引いてそちらに歩き出した。
「猟師の小屋か…?」
近づいていくと、いつ崩れてもおかしくないといった具合で、それは建っていた。手綱
を柱に止めようと近づいた瞬間、彼はこの世で最も聞きたくない声を聞いた。
すなわち、の悲鳴であった。
小十郎は脇差を抜いて、あばら家に飛び込んだ。眼を覆いたくなる惨状が、そこにはあ
った。青白いからだを露出させて横たわると、それに跨る男。あまりに突然のことで
男は小十郎に気付くのが遅かった。
小十郎は言葉を発さず、恐ろしい速さで男を掴み、投げ出した。裸同然の格好で投げ出
された男は、訳が分らず震えも忘れていた。小十郎はすかさず男に切りかかり、男が状況
を判断する前に殺した。そして、脇差の血を拭うとすぐに、あばら家に戻って自分の羽織
をにかけた。
「…」
彼女は小十郎を方を見ようとはせず、体をよじった。その力があまりにも弱弱しかった
ので、小十郎はいたたまれなくなった。
「帰りましょう。兄上様がお待ちです」
それ以上の言葉を、紡ぐことは憚られた。
「いや、いやっ」
兄、という言葉に反応したのだろうか、は思い切り体を動かして暴れた。小十郎は
それを押さえ込んで持ち上げようとしたが、彼女の悲痛な声に阻まれて、それ以上動くこ
とが出来ない。
「こじゅう、ろ、離してっ…やだっ、やだぁ」
ついに泣き出してしまったをどうすることも出来なくて、小十郎は途方にくれた。
ふと視線を下げれば、そこには痣や擦り傷が無数にあって、背筋が凍るような感触がした。
表に転がっているあの男が、これをつけたのだと思うと、ぐらぐらと憎悪と嫌悪が湧き上
がってくる。
「ぅ…っく」
嗚咽を漏らすは、いつの間にか小十郎にしがみ付いていた。ぎゅうと握るその手の
ひらが、白くなるほど強い力だった。
「姫さま…」
「う、う…」
腕に力をこめて抱くと、は顔を胸に押し付けて泣いた。小十郎も泣きそうになった
が、どれだけ待っても涙は出てこなかった。
---
「政宗様!片倉どのが、姫さまを連れてお帰りに」
「!」
政宗は身を乗り出して、彼らの足音を聞いた。ぎしぎしと鳴る廊下が、彼の鼓動を早ま
らせた。ぬっと、小十郎の姿が現れると、政宗は思わず声を発した。
「!」
しかし、小十郎に抱かれたはぴくりともせず、ただただ彼にしがみ付いていた。
「政宗様、ただいま戻りました」
「…ご苦労だった。二人とも、大事無いか」
「そのことは後で…」
小十郎が言葉を濁すと、政宗もそれ以上聞く事はせずに二人を休ませるよう言った。
は最後まで政宗の方を見ようともしなかった。
「姫さま!」
おけいがひときわ大きな声で叫びながら寄ってきた。小十郎はを彼女に預けようと
したが、がそれを良しとしなかったので、彼が部屋まで運ぶ事になった。
「片倉さま…」
おけいが心配そうに声をかける。小十郎はただ「全部あとだ」と言い残すと、おけいが
何か言う前に、廊下を歩いていった。
「姫さま、お部屋に着きました」
用意されていたのは、彼女の部屋ではなく、客間だった。
「とにかく、休みなされ」
彼女を布団に入れると、小十郎はそのまま出て行こうとした。しかし、彼の足をが
掴んだので、立ち止まって彼女を見た。
「どうなされました」
「…」
は決して眼を合わせようとはせずに、俯いたまま何事か言った。それはあまりにか
細い声だったので、小十郎には聞こえなかった。
「なんと申されました?」
屈んで顔を近づけると、は小十郎の腕をぐいと引っ張って、布団の中に入れた。そ
れには小十郎も驚いて、思わず仰け反りそうになった。
「な、なにを」
「…さむい」
は呟くように言って、彼の手に自分のそれを重ねて、擦った。確かに彼女の体は冷
え切っていた。
「ひとりは、いやっ」
ぶるっと震えて、は小さく叫んだ。小十郎はちいさくなって震えだした彼女を見て
いられず、思わずからだを引っ張って、腕の中に取り込んだ。は一切の抵抗をせず、
小十郎の温かさを奪うような冷たさでもって、彼に抱きついた。
周りに聞こえないよう声を殺して泣く姿は、たまらなかった。この姫君の心を癒すこと
は、自分には出来ないのだ。それを思うと悔しくて、ただ腕に力をこめるばかりであった。
なんと不憫な方だろう。
小十郎は、彼女に対する情が、思慕ではなく恋慕であることに気付いた夏の事を思い出
した。あの時の彼女は、体こそ弱かったが、心は健やかで、愛らしい、開きかけの蕾のよ
うな、可愛らしい少女だったのだ。
しかしその花は、まだ花びらも十分に付かぬまま、無残にも散ってしまった。
(この方は、まだ…)
まだ、あどけなさの残る少女だ。それを、あの男は薄汚れた心で手にかけたのだ。
(あのような輩に)
思い出しただけで背筋がぶるっと震える。しかし、それは男の事を思い出したからでは
なく、青白い体を投げ出していたの裸体が眼に浮かんだからだ。あのあばら家に、美
しい肢体はあまりにも不釣合いで、その不均衡さが妙に官能的だった。
(おれは、何を考えてる!)
さっきまで、そのような事は欠片も思わなかったのに。今、彼女の体が自分に当たって
いるその感触が、なぜか小十郎には拷問だった。
邪念を振り払おうとすればするほど、深みに嵌っていくような感触が深まる。小十郎は
腕の中を見た。そこには、疲れきって寝息を立てるがいた。そのあどけない寝顔に、
音を立てて高揚感が消えていく。小十郎は彼女を横たえると、きちんと布団を直してから
部屋を出た。
---
朝日が昇った。
はゆっくり体を起こし、障子から透ける光を感じた。先ほどまでの苦しさはもう無
かったが、どこか引っかかるような気持ちの悪さはあった。
「おけい」
「はい。おはようございます」
襖の向こうからいつも通りの声がして、はほっと息を吐いた。彼女が入ってくると
着替え、髪を梳いた。
「昨日は結構な雪でしたね」
「そうですね。今日はかなり積もっているのではないですか」
「ええ。雪かきが大変だと皆申しておりますわ」
髪を梳き終えると、おけいは彼女の隣に座って、整え残しがないかを念入りに見た。多
秧はそれが終わるのを待たず、彼女に小十郎を呼ぶよう言った。
「あら、片倉さまにお会いになるのならきちんと見なくては」
「いえ、いいのです。小十郎を呼んでください」
はいはい、とおけいは答えながら、外にいた女たちに耳打ちした。
昼餉が終わり、一休みしているころに小十郎は来た。は現れた彼を見た瞬間、あの
時のことが思い出されて顔をしかめた。
「いかがなされました」
「…いえ、ごめんなさい。何も有りません」
「そうでございますか」
「…」
はそれきり黙ってしまい、小十郎も黙ったまま彼女を見た。彼女は顔を背けていた
ので、ぞっとするほど美しい横顔が彼の視界に入っていた。
(今ならば、かどわかしたいという気持ちは分らんでもない…)
小十郎は物騒な考えで彼女を見ながら、言葉を待った。しばらくすると、はゆっく
りと口を開いた。
「小十郎。あなたは、わたくしのむかしを知っている唯一の人です」
「…」
「なれば、あなたはわたくしを…」
わたくしを、ともう一度呟くと、は俯いて膝の上でこぶしを作った。
「姫さま、どうなされました。いつに無く弱弱しくいらっしゃる」
「…わたくしをっ」
は堪えきれなくなったようで、ふるふると震えながら涙を落とした。小十郎は訳が
分らなくて、ひたすら慌てた。
「姫さま?どうなさったのです」
「こじゅうろう…」
見上げた瞳からは、ぽろぽろと真珠がこぼれる。不覚にもそれを綺麗だと思ってしまっ
た小十郎は、壊れ物を扱うかのように優しくそれを拭った。が眼を細める。
「わたくしは、一人では生きていけない」
「なにを仰るのです」
「ひとりは、ひとりはいやなのです」
まなじりに新たな真珠をこしらえたは、小十郎の手に自分の手を重ねて俯いた。そ
こに熱い雫が落ちる。
「ひとりは、」
が発する声に、小十郎は昔を思い出した。
(あの時も、しきりに言っておられた)
どさ、と雪が落ちる音がする。小十郎は忘れていた記憶が蘇ってくるのを感じながら、
目の前の姫君を静かに抱いた。彼女もあの時のことを思い出してしまったのだろう。それ
を思うと、弱弱しくなってしまうのも頷ける。いくら時を重ねても、消えぬ傷と言うのが
誰しもあるが、彼女の場合は酷かった。それを見ただけの自分ですら、身も心も抉られる
ような痛みを感じるのだから。
「小十郎がおります。ですから、姫さまはおひとりではありませぬ」
「う…っ」
ぐりぐりと押し付けられる体に、小十郎は背筋を駆け巡るなにかを感じたが、ぐっと押
し込めて、ただ彼女を優しく抱いた。
きっと、おれもこの方も、ひとりでは生きていけぬのだ、と小十郎は腕の中の柔らかさ
を感じながら、思った。
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く、暗い…でも、これがヒロインの過去なのでちゃんと書いておきたかったのです。
小十郎が微妙なむっつり加減を現していますが、私の書く男はみんなこんな感じになるの
でご容赦くださいませ。
ここまできたらR指定に突入したい訳でありますが、よいサーバーが見つからずなかなか
作れません。いっそのこと、ご希望の方にメールで添付して送っちゃおうかしら…
でもウイルスとかびみょうだなあ…