五.

「あらあら、それはひどい」
「でしょう?いくら屋敷の中であまり会わないといっても、言っていい事と悪いことがあ ります」
 語ること半時。姫相手に延々と良人の愚痴を吐き続けた。そして、極めつけは ほんの少し前の惨事。
「屋敷ぐらいは忙しい所を見せないように、私も意識してゆったりと構えているんです。 なのに、それを捕まえていつも暇だなんてちゃんちゃらおかしいですわ!普段私がどんな ことをしているのかも知らないくせに」
「それははっきりと言うべきね、どの」
「やはりそう思われますか」
 は手にした杯を畳みの上において、姫に言った。そこらかしこに杯やら徳利やら が置いてあるが、の近くには三つ四つの徳利が置いてあった。
「ええ。この話、もう一度左近どのにお話なさるべきですわ」
「では、いまからまいります」
「あらあら。ちょっとお待ちなさいな。今行っても兼続さまや三成どのたちとお話中です から、明日になさったら?」
 すっくと立ち上がったの裾を掴み、姫は彼女を宥めた。は悪酔いしているわ けでは無いらしく、「わかりました」と一言いって、すとんと腰を下ろした。
殿もちゃんも疲れて寝てしまっているから、貴女もおやすみなさい。ここは私 の部屋ですから、寝てしまっても大丈夫よ」
「そうれすか」
「ええ。心配せずに」
 杯に残っていた酒をぐいっと飲み干すと、はゆっくりと背中から倒れていって、完 全に仰向けになるや否や穏やかな寝息を立て始めた。
「ふふふ。可愛らしいこと」
 姫は音も無く立ち上がり、そっと部屋から出た。
 とりあえず、眠り姫を迎えにきてもらわなければならない。はこういう事が たまに起こるので、三成も幸村も少し恥ずかしそうにしながら妻を迎えにくるのだが、花 野は今回が初めてのため、左近がどういう顔で彼女を迎えに来るか。
(少しご機嫌が悪いみたいだし…どうなるのかしら)
 姫はその反応が楽しみでならなかった。
「兼続さま、にございます」
 廊下を渡り、開け放たれた障子の隅から控えめに声をかける。すると、良人が「どうし た、入れ」と少し上機嫌な声を上げた。
「失礼いたします」
 姫が入ると、そこでは困り顔の左近と、彼にくどくど説教をしている三成、はらはら しながら見つめる幸村。一歩引いて笑っている兼続がいた。
「あら、お邪魔でしたかしら」
「いや大丈夫だ。それよりどうしたんだ?」
 姫は良人の隣に座ると、そっと耳打ちした。
「ほお」
 兼続はにやりと不敵な笑みを浮かべ、三人を視界に入れながら呟いた。
、そのくらいでどのの機嫌が直ると思うか?」
「いいえ」
「そうだろうな。土下座して謝ったって、許しえもらえるか怪しいな」
「ふふ。謝って欲しいのではないのですよ」
「確かに。まあ、しかし言わねばな」
 兼続はすっと三人の輪に入って、左近に耳打ちした。三成がなにやら言っていたが、こ の際そんなことは聞いていられない。
「本当ですか」
「ああ。そなたでないと出来ぬからな」
「分りました。では今日はこれにて」
「うむ。これは何とかしておこう」
 三成を指しながら言う兼続に会釈しつつ、左近はするりと部屋を出た。
「三成、幸村。最後に飲みなおすとするか」
 幸村はぎょっとした顔をしたが、三成が合意したので、その雰囲気に従わざるを得なか った。

***

〜」
 左近は女人の部屋に立ち入ることに抵抗を覚えつつ、姫の部屋に入った。そこには端 の方で何かがふたつ包まっていて、手前の方に妻がいた。
「おい、。大丈夫か」
 しゃがんで肩を揺らすが、一向に起きる気配は無い。赤い顔をして、むにゃむにゃと何 事か呟いている。
「こりゃだめだな」
 左近はを抱き起こすと、軽々とその腕に抱いて襖を閉めた。こうして抱いてみると 妻の体のなんと小さいこと。ふにふにとどこをふれても柔らかい体が、今はかっと熱い。
「溶けちまいそうですね、奥さん」
 軽口を叩いても、は一向に返事をしない。ただただ訳の分らない言葉を発し、深い 眠りに落ちていくばかりである。そんな寝顔を見つめていると、先の失言について、言い 訳がましい言葉が口をついて出てくる。
「…ずっと暇だって言うのは確かに言い過ぎたが…その、姫に気に入られているみた いだし、お前を推すという意味もあって殿に言っただけで…だから、要するに言葉の綾と いうやつで」
「わたしははたらいてんれすよ」
 急に発せられた言葉に、左近はびくっと体を揺らした。
「しゃこんさまが、どんなおしごとを……わたひもはたらいてんれす…」
、起きてたのか」
「…ひまやないれす……しゃこんさまは……しばらくわらひに…」
 与えられた部屋の襖をがらりと開いて、左近は寝所に入った。すでに敷かれている布団 にを横たえると、小さな頬に手を遣る。
「しゃわるな!……れす…」
 触れた手をぴしゃりとはたかれて、左近は思わず手を引っ込める。条件反射とはいえ、 結構傷つく。
「…」
 そういえば、このごろ屋敷に帰ってなくて、に触れられていない。しかも今回のこ とがあって、彼女と同じ布団に入るのは久しぶりである。
「まあ、一緒に寝るくらいはいいよな」
 着ていたものを脱ぎ、着替えると、そっと妻の隣に入った。片腕で頭を支え、の顔 を見ていると、ふつふつとこみ上げてくるものがあったが、相手は寝ているし、まさか寝 ている相手に仕掛けるわけにも行かず、左近は悶々としながらの髪に触れた。
(…うーむ)
 どうも辛抱できん。
 どうしたことかと左近は思ったが、どうする事もできない。無理やり事に及んでも、こ れ以上溝が深くなるのは考え物である。
(一時の幸せか、一生の平穏か…)
 もう一度だけ額に触れて、左近はと逆方向を向くと、身を縮ませて無理やり眠ろう とした。
「あつーい……」
(聞こえない聞こえない)
「んー…あついのー…」
(……)
 思い出したように断片的な言葉を吐くを左近はなんとか無視しようとするのだが、 その、妙に悩ましげな声が気になって仕方が無い。そんな風に思っていると、こつんと肩 に彼女の手が触れたので、左近はのっそりと起き上がった。
「ふぃー…」
 両手を左右に伸ばし、は暑さのためか苦しそうに息を吐いていた。
(あ、こいつ着替えてなかったな…)
 見れば彼女は此処に来たときの格好のままで、いくら越後が涼しいとはいえ、暑くて当 たり前だった。
 じんわりと汗ばんできている首筋を見ていると、こちらも暑くなってくる。左近は何も 考えずにの着物に手をかけて、ゆっくりと脱がしていった。
(こりゃ暑いわな)
 汗でべっとりした着物を脱がし、ぽいと放り投げる。肌襦袢に差し掛かって、動かして いた手を止めた。
(これが一番変えんとならんモンだが…)
 これを除ければは素っ裸になってしまう。いまさら見た所でどうと言うわけではな いが、この心理状態でのあられもない姿をこれ以上見るのは自殺行為である。
(このまま寝てもらお…)
 左近はの肌襦袢から手を除けようとするが、なぜだか指が離れない。視線は彼女の 胸元から顔をいったりきたりで制御できないし、それに反応するかのように体は前のめり になってゆく。
(まずい…)
 そもそも着替えさせたのが間違いだったのだが、悩ましげな声を出され続けるよりはま しだったと思うほか無い。実際、はうわ言を言わなくなっているし、顔もさっきより 楽そうだ。
(楽に寝たい。それだけだ。それだけ)
 自分は声に悩まされずに、彼女は暑さに悩まされずに。これで支度はすんだのだ。早く 寝なければ。明日だって遅いわけではない。
(寝るぞ……)
「ふぁあ」
「うわっ」
 が突然呻いたので、左近は思わず声を出してしまった。大急ぎで口を塞ぐと、妻が 起きていないかだけを確かめて、どさっと音を立てて布団にもぐった。
(あ、手が外れた……しかし、余計に目が覚めたぞ…まったく、のやつ。こんなとき にあんな声を出さなくてもいいだろうに…)
 それきり静かになったの横で、左近は先ほどよりひどくなった状況をどうする事も 出来ずに、暑い夏の夜、しっかり布団をかぶって目を閉じた。


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