1.頬
幸村の朝は早い。
朝餉の前に体を軽く動かし、槍を持って半時ほど鍛錬に耽る。そうすることで目を覚ま
し、腹をすかせるのが彼の日課であった。
だから、彼の朝は早い。
(まだ寝てる)
辺りがまだほの暗い時間。は隣で眠る良人の顔を見ながら、そろりと布団から体を
起こした。いつもならば、もう少しで良人は目を覚まし、鍛錬へと出て行く時間である。
暮れなずむ夕日のような暗い赤の光を頼りに、は良人を見下ろした。掛け布団から
のぞく首と胸元。よく日に焼けているのか、はっきりとその輪郭を確認することは出来な
い。見えるのは、はっきりとした目鼻立ちと、濃い黒髪。伏せられた瞳を縁取る睫毛も黒
く、普段優しく細められている瞳とはまた違った安らかな表情を表していた。
(どこにすれば…)
は先日の話を思い出す。兼続の妻と話したときの事だ。かの人二人は、眠りにつく
とき、朝起きたとき、二人が分かれるときに接吻をするらしい。しかし、それは決まって
互いの口と言うわけではなく、手であったり頬であったりするらしいのだが、そんな事は
おろか、手すらまともに繋いだ事の無いにとっては驚くべきことであった。接吻とは
大人同士がするものなのだという認識があったのである。
大人だけがするものというわけではないのよ。それに、あなたたちは子どもではなく夫
婦なのだから、接吻のひとつやふたつ、してもおかしくはなくてよ。
その言葉に、は良人との接吻を心に決めたのである。
(唇?…でも起きてしまったら、怒られてしまうかも…手は探さないといけないし、首…
は……なんだか恥ずかしい)
幸村の体をじろじろ見ながら、は口付ける箇所を探す。接吻はしてみたいが、それ
を彼に気づかれてしまうのは何となく恥ずかしい。
(ん…頬なら気づかれないかも)
は心を決めると、深呼吸して瞳を閉じた。そして薄く開くと、幸村の頬を見つめな
がら、ゆっくりと上体を屈めた。頬に近づくにつれ、良人の呼吸を己の頬に感じ、ぶるっ
と震えた。唇が触れるか触れないかのところで、は瞳を閉じて、そっと口付けた。
口付けとは、どのようにするのですか?
やり方なんてものは無いのよ。相手に愛しているということを伝える表現のひとつに過
ぎないのだから。
しかし、やり方がわからなければできません。
やり方ねえ…頬や手にするのなら、唇が触る程度でいいんじゃないかしら?
(触れる程度…)
は熱い肌から唇を離した。何もしていない。唇が触れただけだ、と頭の中では思う
のだが、どうも頬が熱くなって仕方が無い。それに、心の臓もばくばくと脈打って煩い。
(やってしまった)
初めての接吻というものに、は喜びと恥ずかしさを大いに感じていた。もし、これ
を幸村からしてくれるような事があれば、自分は死んでしまうかもしれないとすら思える
ほどに。
(もう一回)
この胸の高鳴りを、突き上げる喜びを忘れることが勿体無くて、は再び上体を屈め
る。この喜びを二人で分かち合えたならば、どれだけ喜ばしいだろうか。先の恥ずかしさ
は完全に身を潜めていた。
(幸村さま、はあなた様をあいしていると伝えたいのです)
いつもは寡黙だけれど、言わないだけで。
瞳を閉じて、は再び口付けた。
が、
「…?……ど、どうし…、え?」
幸村は目の前に広がる光景に着いていけず、思わず素っ頓狂な声を出した。
「!」
は弾かれたように飛びのいて、幸村から逃げようとする。さすがにそれを食い止め
るだけの瞬発力は備わっていたのか、幸村は妻の腕を掴んで勢いよく引き寄せた。が
幸村の足の上で尻餅をついたような格好になる。
「えっと、その…どうしたのだ?」
「……」
真っ赤になって俯いて、は声を発さない。幸村は先ほどの光景をもう一度思い浮か
べてみる。目が覚めて見えたのは、遠のいていくの顔。彼女の手は自分の肩と胸に置
かれていて、残っていたのは頬にあるほんのりとした温かさと、柔らかさ。
この感触を、遠い昔に感じたような気がする。本当に幼かった頃に。
「。いま私にしたことを、もう一度やってくれないか」
言うと、は面白いぐらい驚いて首を左右に振った。
「…じゃあ、私がしてもいいか」
「!」
小さなを抱きすくめて、幸村は彼女を見下ろす形で唇を頬に寄せた。触れた柔らか
い感触があり、ほんのりと甘い香りが鼻孔を掠める。
幸村は頬に口付けたまま、しばらく彼女を抱いていた。抱きしめて、唇が頬に当たって
いるだけのようにも感じる。それほどに軽い口付けであった。
懐かしさと心地よさを感じながら、幸村はを胸に抱いたまま布団に倒れこんだ。び
くびくと体を震わせていたも、いまではすっかり大人しくなっていた。
「…幸村さま」
「ん?」
「幸村さまは、接吻、すき?」
「うん、嫌いではないな」
「は」
「は好きか?」
「…幸村さまとするのは好き」
「そうか。私もとするのは好きだな」
寝転がりながら、幸村とは鼻と鼻がくっ付くような距離でくすくすと笑いあった。
「幸村さま」
「なんだ?」
「お屋敷を出るときも、朝起きたときも、夜眠るときも、と接吻してくださいますか」
「えっ」
「頬でいいです」
「、そんなことをどこで」
「頬でもいいですから」
「…わかった」
その後、が兼続の妻に接吻のことを報告したおかげで、幸村は兼続から延々と恥ず
かしい接吻談義を受けましたとさ。