2.手
「忠勝殿、に接吻してくださいませ」
「…は?」
持っていた菓子きりを落としそうになって、忠勝は目の前の姫君を見た。いつも通りの
愛らしさと、見ているだけで心がほぐされる様な笑みがある。
「ひ、姫さま、それは」
驚いたように声を発した稲に、はにこやかな笑顔を向けた。
「稲もしてくれますか」
「え、いや、その、姫さまがお望みならば…」
あたふたと慌てる娘を横目に、忠勝は恥ずかしいようなむず痒いような感覚に襲われて
いた。
「半蔵はしてくれました」
「「えっ」」
親子の声が重なる。忠勝と稲は思わず顔を見合わせて、を見た。
「半蔵さまが」
「姫さまに?」
にこっと笑いながら首を縦に振る。ああなんと愛らしい。いつもならば素直にそう思え
るはずが、今は余計な思考が邪魔をして素直に受け止められない。
「な、なぜ半蔵さまが?」
慌てる稲。どっしり構えているようで内心穏やかではない忠勝。二人のかもし出す空気
は、もはや半蔵に対する疑心に溢れていた。
「この前、父上の所に伊達さまがいらっしゃってね。わたくしもお話させていただいたの
だけど…そのときに、異国では家臣が目上の女子に挨拶をする時は、手に口付けるのだと
教えていただいて」
「手、でござるか」
「ええ、手です」
手の甲を指差しながら、は「初めは恥ずかしいけれど、なんだか嬉しくて」と無邪
気に笑みをこぼしている。
「忠勝殿、駄目ですか?」
「いえ…」
忠勝はににじり寄って、控えめに差し出された白い手を見た。傷一つ無く、柔らか
い肌がきらきらと輝いているようにも見える。
「では、御免」
節くれだった大きな手が、白く柔らかい手を取ったかと思うと、静かに忠勝の頭が下が
る。温かい感触が、の手にじんわりと広がった。
ふわりと離れた唇に、は思わず手を伸ばしそうになって止めた。すくなからず慕っ
ている相手にこのようなことをしてもらうのは初めてで、すこし緊張していた。ずっとこ
の時が続けばいい、と思うほどに幸せだった。
「これで宜しいのか」
わずかに上擦っているようにも取れるその声音に、は嬉しそうに「はい」と答えた。
「父上」
「なんだ」
帰路を辿る忠勝に、稲は言いにくそうに声を掛けた。
「あまり言いたくはないのですが」
「はっきり申せ」
「父上は姫さまの御手に接吻なされました」
「…」
「しかし、その前に半蔵さまが姫様の御手に接吻されておられます」
「…うむ」
「ということは、半蔵さまが口付けられた姫さまの御手に、父上が」
言いにくいと言いながら真面目な声音で解説を始めた娘に、忠勝は並々ならぬことに気
がついてしまった。
「稲」
「はい」
「それ以上は言うな」
「…わかりました」
憮然とした表情の忠勝は、白い手の柔らかい感触だけを思い出していた。