4.首
「あら?」
部屋で書き物をしていたは、只ならぬ気配を感じて声を出した。広い部屋を見渡し
てみるが、そこには誰も居ない。そろそろと立ち上がって、庭へと続く障子を開ける。
「まあ、いらっしゃい」
そこには、ふさふさとした毛並みを風になびかせた一匹の狼が座っていた。うっすらと
蒼い毛並みが美しい。
「今日は一人なのですか」
狼を部屋に招きいれながら、は問うた。狼はその鼻をの足元に摺り寄せながら、
わふっと鼻を鳴らした。は元の場所へ腰を下ろすと、自分を囲うように横になった狼
の背中を一撫でする。狼も気持ち良さそうに目を細め、声になり損ねた息を吐いた。
開け放たれた障子から、さわやかな風が入ってくる。夏真っ盛りで暑いはずなのだが、
背中に当たる狼の熱さと、頬を撫で部屋を通り過ぎていく涼しさとの間隙が、
をぼん
やりとした眠気に誘う。
「なんだか…眠いですね…」
うっとりとした様にも見える表情で、は狼の背中を撫でて言った。すると、狼は彼
女の背中から抜け出て、彼女の膝に顔を置いた。ぐいぐいと腹の辺りを押してくる。
「横になりましょうか」
正座をゆるゆると崩し、はそのまま背中から倒れこんだ。寝転がると、風が体全体
を撫で付けていって涼しい。
「あなたも…お休み…」
膝の上にいた狼は、いつのまにか腕と腹の間に横になっている。顔をそちらに向けて微
笑むと、くうんと可愛らしい声を上げて鼻を寄せてきた。
***
「なんと無防備なことよ」
隣で寝息を立てるに、小太郎は口角を吊り上げて笑う。うっすらと赤くなっている
頬に触れると、暑さのためかしっとりと汗ばんで熱を持っている。死人のように冷たい己
の手を当ててやると、わずかに身じろぎするものの、気持ち良さそうに相貌を崩す。
「…」
頬に当てていた手を、ゆっくりと下ろしていく。とくとくと脈打つ首元に進ませると、
首から肩にかけての素肌に触れる。健康的とはいえない白い肌も、この暑さでは血の巡り
もよくなっているのか、きらきらと輝くようにすべらかである。長い爪を少しでもつき立
てたならば、さぞ見事な牡丹が咲くことであろう。
「…クッ…」
抑えきれない、と言った風に、小太郎は笑う。「出てきたらどうだ」と声を掛ければ、
殺気立った黒い影が姿を現す。
「覗き見とは趣味が悪い」
「それ以上狼藉を働けば、容赦せぬ」
「おお怖い」
小太郎は指一本でも動かせば、射抜かれてしまいそうな緊張感を楽しんでいた。それに
対し、現れた黒い影、半蔵は両腕に仕込まれた暗器を準備し、小太郎を睨みつける。二人
の間に横たわる美しいもの、は小太郎の方に顔を向けたまま、依然眠りこけている。
「どこから見ていた?」
「…」
「入る前か?腰に巻きついた辺りか?」
「戯言は聞かぬ」
「そうか……そういえば、我がこれに口付けたのは見ていたか」
ちらりとを見遣れば、半蔵ぴくっと体を揺らす。
「何…」
「こんな風に、だ」
言うなり上体をに倒すと、首筋に噛み付くように口付ける。の体がぴくんと震
えると、我慢ならなかった半蔵の小さな苦無が小太郎の手甲に刺さる。
「面白き犬よ」
小太郎は体をゆすってくつくつと笑う。
「子犬には適当に言っておけ。うぬが出てきては続きは出来ぬ」
「疾く去ね」
苦々しく吐き捨てる半蔵を他所に、小太郎は子犬の方をちらりと見ると満足げに消えた。
「…ん」
誰も居なくなった部屋で、はやっと目を覚ました。そして、側にあった温かいものが居なくなっていることに気づく。
「…あら、あの子」
そっと障子の向こうを見つめる。風のように現れ、風のように去ったあの蒼い狼を思い出しながら、は「またお出でくださいね」と一人ごちた。