ひさしのきみ
   
 
 
 まだ蒸し暑さの残る長月。みし、みしと足音を立てながら半蔵はとある部屋に向かって いた。その手には小さな竹の籠。中にはじっとして動かない鈴虫が二匹入っている。

 鈴虫という蟲は、昼間には鳴かぬものである。夜に草の下で翅を震わせ、幻想的な響き でもって、涼やかな空気を運んでくれる。半蔵はそれを手土産に、近頃体調が良いという 姫君のもとに向かっていた。
 部屋に近づくにつれ、琴の響きが耳を打つ。いつもと違うそれは、どこか刺々しい音色 を孕み、開け放たれた襖からいびつに広がってきた。

 いつもの流麗な響きが無い。
 
 半蔵はおやと思いながら、お女中衆が自分を認めて姫君の所へ伝えに行くのをぼんやり と見ていた。いつ来ても、ここだけは時間が止まっているような不思議な空気がある。え もいわれぬ良い香りと、母の腕の中のような優しい雰囲気は主を映す鏡のようであった。

 びいん、と大きく糸が震える。はたと意識を戻した半蔵は、お女中に勧められるがまま 青々とした畳に足を踏み入れた。

、指は大丈夫ですか」
「はい。琴とは難しいものですね」

 刹那、その場に座することも忘れて足が止まる。姫君がちらりと視線を向けると、にっ こり微笑んで「いらっしゃい」と言った。自分に背中を向けていた軽装の女が、首だけを こちらに向けて目を丸くしている。

 たしか、この女子は―

「あ、半蔵さまだったのですね」

 聞きなれた声に後ろを向くと、そこには高く結った黒髪を揺らす稲の姿があった。

「もう一人の客人とは誰かと思うておりましたが」
「客人?」
「はい。今日は私とさまの、お琴の手習いの日なのです。それにあわせて姫さまが 客人を呼ばれていると仰られていましたので…」
「…やはり、どのであったか」

 と呼ばれた女子が、軽く会釈をしながら「お久しぶりでございます」と言った。

「戦場ではしばしばお見かけするが…このような所では本当に久しぶりですな」
「まことに……それはそうと、半蔵さまのお働き相も変わらずお見事でございます」

 そう言って、ほんの少しだけ微笑む。このという女子は、鳥居元忠の娘にして槍 の使い手である、いわゆる女傑というやつで、小さいときから父に習って槍を振るってい た。妹ぐらいの年の差であった半蔵は、元忠に頼まれて幼いによく稽古をつけてい たものだった。
 は、生真面目でとにかく努力家である。どんな過酷な稽古にも、ひとつの文句も 言わずに黙々と取り組む。半蔵は自分と同じく寡黙で、ただひたすら鍛錬に励むの ことを好ましく思っていた。
 しかし、年頃になると稽古にも呼ばれなくなり、気づいたときには既に初陣を飾り、一 介の将となって父に従っていた。それ以来、戦場で姿を見かけることは何度かあったが、 言葉を交わすことは殆どなかったのだ。

「半蔵さまとさまはお知り合いなのですね」

 半蔵が三人から少し離れた所に座ったことを確認して、稲が琴の前に腰を下ろす。
 
「幼少のころに稽古を付けていただきました」
「まあ、そうなの」

 姫君がうふふと笑いながら半蔵を見る。女三人に囲まれたような形になって、半蔵は思 わず言葉を発していた。この手の話題は、どこにどう飛び火するか分らぬ節がある。

「姫さま、これを」

 差し出した籠を見て、姫君はと稲に声を掛けた。三人が竹籠を囲むような形にな って、鈴虫も居心地が悪そうにせわしなく動き回っている。

「鈴虫ですね」
「はい」
「貴方が採ったのですか?」
「庭にて」

 こうして言葉を交わす間に、と稲は感嘆の声を上げながら籠に見入っている。鳴 かないのでしょうか、と稲が誰に言うでも無く問えば、姫君は籠を持ち上げて侍従に渡し ながら

「鈴虫は夜に鳴くのですよ」

 と答えた。
 
「日が暮れるまで待ちますか?」

 お琴の手習いは無しにするか、と揶揄されているようで、稲とは首を横に振る。
半蔵が思わず苦笑すると、二人の視線が容赦なく刺さるように感じられた。

「では、始めましょう」 

 爪を付け直したと稲に、姫君は半蔵には分らぬ言葉を紡ぎ始めた。


***


 びいん、びいんと嫌がるように糸が震える。

 それを操るは他でもないである。半蔵は邪魔にならないよう部屋の端の方に寄っ て、二人の手習いを聴いていたのだが、この音色はどうもいただけない。
 流れるような姫君の手本に続けられる二つの音。ひとつはたどたどしくも手本どおりに 続けられる稲のもの。もうひとつは、爪弾く位置は間違っていないのだろうが、どうも力 加減が上手く行かぬのもの。

 どちらも不快ではないが、のものはどうしても耳に付く。しかし姫君は大きな間 違いさえしなければ、彼女達が爪弾く間は決して声をかけない。二人とも一所懸命である ことは、聴覚しか働かせていない自分にも良く分るのだ。

「お二人とも、前よりお上手になられましたね」

 稲とが顔を上げ、姫君を見つめる。

「では、最後におさらいをして仕舞いにしましょう」

 姫君が柱(じ)を少し動かして琴に向かうと、稲とも居ずまいを正した。そして、 何の合図も無いまま、琴は三者三様の音を奏で始めた。

 奏者にとって、爪弾いている瞬間というのは陶酔のひと時なのだろう、と半蔵は女三人 の横顔を見ながら思う。も稲も戦場に身を置く者として、沢山の重圧や苦労がある に違いない。それを思えば、このひと時はそんな事も忘れて、一人の人間として新しいこ とを覚えてゆく楽しみと開放感に浸ることの出来る唯一の空間なのかもしれない。

 爪弾くことが彼女らの安寧ならば、自分はそれを聴き、楽しそうな彼女らの横顔を見る ことが安寧である…

 そう思えるほどに、半蔵はこの緩やかな空気に身をゆだねていた。



 音が途切れる。
 半蔵は目が覚めたかのように三人を見ると、楽しそうに話し込む彼女らがいた。
 邪魔者は退散と、腰を上げようとしたその時、目の前が暗くなった。

「失礼仕る。手習いは終わり申したか……む、半蔵か。珍しいな」
「忠勝」

 姫君の声が幾分華やいだように聞こえるのは気のせいか。自分達がいなければ、立ち上 がっていたのでは無いかと思うほどに、彼女は全身で喜びを表していた。
 この姫君をここまで喜ばせる憎い男が、自分の同僚だということに半蔵は前々から気が 付いている。そして、それが非常に難しい問題であり、二人がそれを承知で会っていると いう事も。

「今日はお早いのですね」
「いつも通りに出たつもりなのですが…足が急いたようで御座る」

 うふふと笑う姫君を横目に、稲とがそっと腰を上げる。半蔵もそれに習って立ち 上がると「姫さま、ありがとうございました」と稲が声を掛けた。

「ええ。あら、もう帰ってしまうの?」
「帰ってもう一度弾きたいのです」
「そう…では、気をつけて」
「はい!」
「わたくしも…」
「ええ、も気をつけて。半蔵、を送っていっておやりなさい」
「御意」


***


 家路に急ぐ稲と別れ、半蔵とはゆったりと歩いていた。

 積もる話が有るはずなのに、何から話してよいか分らない。も同じなのか、神妙 な顔で俯いたまま黙り込んでいる。

どの」
「半蔵さま」

 あ、と自分の声がにごる。はこちらの声には全く反応していないのか、意にも介 さず続けた。

「私の琴の音のことなのですが」
「あ、ああ」
「半蔵さまの感想を率直に言ってください」
「率直…」

 ぎくりと身をこわばらせながら半蔵は答える。あの音のことを、彼女自身も気にしてい るのだろう。ここで正直に言い過ぎては彼女を無駄に傷つけることになってしまうし、か と言って変におだてても、すぐに見破られてしまうだろう。

(先から黙り込んでいたのはこのせいか)

 適当な言葉が思い当たらずに、半蔵はやや諦め気味に言った。

「音の高さは…姫のものと寸分たがわぬと拙者は思う」
「…」
「しかし、その…何と言うか」
「はっきりおっしゃってください」
「うむ。その、何だ…調子というのか、雰囲気というのか…それがまるで違う」
「雰囲気ですか」
「ああ」

 言うなりは再び黙り込んでしまう。相変わらずその表情に変化は見られない。

「何か、私の音を表すのに適当な言葉はありまするか」
「…強いて言うなら、きつい、か」
「きつい?」
「姫のそれが栗の実ならば、そなたのはいがであるな」
「いが」
「うむ」
「刺々しいと」
「あ、ああ」
「…」
どの」

 いよいよ歩みまで止めてしまったに、半蔵は心配そうに声を掛ける。

「力が入りすぎているのでしょうか」
「は?」
「糸に力が入りすぎているのやも知れませぬ」
「そうか」

 ぐっと握りこぶしを作って、は表情を引き締めた。半蔵はきょとんとした顔でた だただ彼女の言動を見守る。引き締められた顔がこちらを向く。

「半蔵さま」

 それと同時に、両手を掴まれた。武人とは思えぬほど柔らかいの両の手が、自分 のそれを握っていた。咄嗟に反応できなかった自分の体を呪いつつ、半蔵は吸い込まれそ うなほど真っ直ぐなの瞳を見つめた。

「ありがとうございます」
「う、うむ」
「帰ったら、もう一度やってみます」
「それが良い」
「また、次の手習いの日もお越しいただけますか」

 間抜けた声が漏れそうになるのを抑えながら、半蔵はを見た。先ほどとは打って 変わった笑顔がそこにある。

「次?」
「十日ほど先です」
「拙者が」
「はい」
「そなたの手習いに」
「練習の成果、見ていただければ幸いです」
「いや、しかし」
「一回二回で上達するとは思うておりませぬ」
「なれば」

 息をつく暇も無く、半蔵とのやり取りは続けられる。

「半蔵さまが良いとおっしゃられるまで、わたくし諦めませぬ」
「…どの」
「槍のみならず琴までも見ていただければ、は嬉しゅうございます」
「…」
「お願いできまするか」
「…相分った」

 ぱっとの顔が明るくなると、「お師さま、ありがとうございます」と叫んだ。
 お師さま、とは槍を教えていた時分に彼女が己を指して呼んでいたものだ。



 ぶんぶんと千切れんばかりに腕を振り、は今日一番の笑顔で別れを告げた。


***


「お、半蔵」
「…元忠どの」

 てくてくと近づいてくる男は、の父・鳥居元忠である。どこか歩き方がゆったり として、少し揺れているように見えるのは、三方ヶ原などの戦で足を負傷したせいである。

「いやあ、すまんな。がわがままを言ったようで」

 誰かに見られていたのか、となぜだかうろたえてしまって、半蔵は「いえ」と無理やり 言葉を濁した。

「あれが帰ってくるなり、おぬしにまた師事を仰げると騒いでおったわ」
「は、はあ」

 今までののことを思い返してみると、騒ぐ姿など想像もできない。いつも黙って、 言わなければならない事だけを言うといった女子なのだ。

「うん?がそのようなことを言う女子だとは思わなんだか」
「それは」
「あやつ、外面はいいのう」

 家では童のようにやかましくて適わんわ、と元忠はけたけた笑った。半蔵はただただ彼 に圧倒されたような感覚に陥りながら、先を歩く彼の背中を見た。

「面倒臭くなったらいつでも投げてくれ」
「元忠どの」
はずいぶん楽しみにしておったがなあ」
「元忠どの…」

 あんなに嬉しそうな顔は久方ぶりに見たぞと元忠が言うと、半蔵は柄にも無く照れたの か、黙り込んだ。

「まあ、照れるな照れるな!」

 ばしばしと嬉しそうに肩を叩く元忠の顔を見ながら、半蔵は十日先が少し楽しみになっ た。




***後記***
神白侑衣さまからのリクエストで、「徳川陣・半蔵メイン」でした!
できれば恋愛とのことだったのですが、どうもその一歩も二歩も手前な感じになってしましました(><)

神白さま、如何でしたでしょうか?ヒロイン名はご自由に変更くださいませ。
煮るなり焼くなりスキしてくださいv

半蔵メインで書くこと自体が初めてだったので、とてもどきどきしながら筆(?)を進めました。
半蔵は口調が難しい…どうしても「…」が多くなってしまうのですが、そればっかりだと、会話部分が長いためくどく なってしまうし……キャラクターをハッキリと出すことが難しかったです。
話し相手が目下だと書きやすいんだけど、どうも目上とか尊敬語対象は難しいです。

あと、既存のヒロインではどう転んでも甘くなりそうになかったので、新しいヒロインに登場してもらいました!
名前は喜波留(きはる)です。
すばらしく天然ちゃんですが、これからも折を見て登場していただこうと思っています。

神白侑衣さまリクエストありがとうございました!