暑い日だった。まだ皐月の半ばだというのに、汗ばむ、というよりは息苦しいほどの乾
いた暑さ。じっとしているだけでも喉が熱く、ひどく渇いた。
灼熱地獄の下で鍛錬をすませた幸村は、疲れた表情で自分の部屋の戸を引いた。がらが
らと乾いた音を立てて、戸が開く。外とは違い、少し湿り気を帯びた空気が鼻にふれると
幸村はふう、と疲れた声をだした。しかし、そんな気持ちを飛ばすような明るい声が部屋
に響いた。
「幸村さまーおかえりなさーい」
部屋の中には、くのいちがいた。
「お、おぬし」
「きょうはすごい暑さですねえ〜まだ皐月なのにぃ」
涼しげな格好で、団扇をひらひらとこちらに振っている
「何故私の部屋におるのだ」
「だってえ・・幸村さまの部屋、涼しいし」
「・・・」
返す言葉も無かった。かといって、彼女を追い返す気力も持ち合わせていなかった幸村
はこの部屋で一番涼しいところを占領しているくのいちの体をうまい具合に転がすと、自
分がそこに座り込んだ。
「うにゃっ!何するんですか〜」
「私が言いたい」
勝手にひとの部屋に上がりこんだ上に特等席を取られたとあっては、この部屋の主とし
て黙っていられなかった。ごろごろとこちらへ転がってくるくのいちに目をやりながら、
時たまふく気分屋な風に身を任せる。ふと、くのいちの頭が幸村の膝にあたる。幸村はち
らりと眼を遣った。くのいちは視線を感じたのか、からだをころんとこちらに向けた。目
が合うと、くのいちは相貌を崩した。幸村も口元を微かに緩めると、畳の上にほられてい
る団扇を拾い、ゆっくりと動かし始めた。
どこからか、剣戟の音が聞こえる。ざわざわと笹の葉のこすれる音がする。
時間が止まってしまったような心地が、幸村の中でゆっくりと広がっていく。清涼な空気
を吸い込んだような、滝の近くにいるような。内からなにか冷たいものが広がっていくよ
うな気持ちよさ。周りの音が、ゆっくりゆっくり遠ざかっていく。いつの間にか、双眸が
閉じられていた。
煙の匂いで、目が覚めた。
むっとしていた重い空気はどこへやら。着流しではすこし心細いほどに涼しい風がびゅ
うびゅうと疾り回っていた。まだぼやけている視界を明瞭にしようとすると、目の前に何
か飛び込んできた。咄嗟にそれを遠ざけようと腕で払おうとすると、それはすばらしい速
さで彼の腕をよけた。くのいちだった。
「おぬし、何をしようとしていたのだ」
「なかなか起きないから起こしてあげようと思っただけですよ」
「・・・・・」
「疑ってますね」
「ああ」
既の所で幸村奇襲作戦を失敗してしまったくのいちは、ちくちく刺さる幸村の視線をも
ろともせずに幸村の目の前に座った。
「寝てる幸村さまの顔、可愛かったですよ」
「女子に可愛いといわれても嬉しくないぞ」
「いいじゃないですか。不細工っていわれるよりは」
人並み以上に可愛いこのくのいちに、こんな男くさい自分のことを可愛いといわれて喜
べるであろうか。否。
「でも、武人がそんな簡単に寝てるところを晒しちゃっていいんですか?」
「ここは私の部屋だ」
「でも、あたしがいるじゃないですか」
「おぬしに何を言っても無駄だろう」
「信頼されてるんですか」
「おぬしは私の部下だろう。部下を信頼できないようでは上司は務まらぬ」
「・・・・」
くのいちはそれ以上なにも言わずに、窓へ身を乗り出した。
信頼されている。暗にそう言われたのだ。彼女はなんと反応すればいいのか分からなか
った。仕事の上では信頼されているかもしれないが、こういう私生活のなかでもそんな感
情をもたれているとは夢にも思わなかった。こそばゆいような、気持ち悪いような。窓か
ら下を覗くと、短時間ですっかり暗くなってしまったせいか、下が見えない。自分の気持
ちに似ていると思った。
「あぶないぞ」
さして心配してなさそうに言った幸村だったが、心の内では、何をするか分からないく
のいちが少し心配だった。
今に始まったことではないが、突飛なことをするこの性格に幾度も頭を悩ませた。
ぴくりとも動かないくのいちが段々と心配になってきて、幸村は彼女の後ろに立った。
すると、くのいちがこちらを向いた。
なんともいえない顔をしている。喜んでいるのか、悲しんでいるのか。
くのいちに何と言葉を掛ければよいのかわからないでいると、くのいちが風のようにふ
わりと、幸村の胸に入り込んだ。びっくりしてしまった幸村は、行き場の無い腕をしどろ
もどろさせていた。
「幸村さま、あったかいですね」
「おぬしは・・・・・つめたいな」
「あたしは、あったかくなれませんから」
その言葉を聞いた途端、幸村はくのいちの背中に腕をまわした。びっくりしたのは今度
はくのいちのほうだった。
「こうしていれば、おぬしは冷たくない」
「幸村さま・・・」
「外は冷たくとも、内は温かい。内が冷たい人などおらぬさ」
「・・・・・・」
不器用だった。しかし、背中に回した幸村の腕がくのいちには嬉しかった。行動で示し
てくれるのが、彼女には一番よかったのだ。
幸村のからだは、燃えるように熱かった。しかし、それは氷のように冷たい彼女には丁
度良い熱さだった。
「幸村さま、ありがとう」
「・・・・」
くのいちの言葉を受けて、腕を離そうとした幸村の腰に腕を絡ませた。もう少し、温か
いこのからだに触れられて、触れていたい。
「もうちょっとだけ・・」
「別に構わんが、どうなってもしらんぞ」
もう夜だしな、といった幸村の顔は見えなかったが、くのいちはくすくす笑った。
幸村がそんなことをするような男と思っていないらしかった。
「幸村さま、なんにもしないよ」
「根拠がない」
「まあ別に、幸村さまさらいいけどね」
そう言うと、くのいちはまたくすくす笑った。幸村の顔は相変わらず見えなかった。