微醺
「お注ぎいたしましょうか」
「ああ」
開け放たれた障子の前で、兼続とは月見酒をちびちび嘗めていた。しかし飲むのは専
ら兼続で、は酌をしているだけであるが。
「よい月にございます」
「そうだな。満月で無くとも、闇に映える黄金は美しい」
「まことに」
また酒が注がれる。兼続は杯に酒を注ぐ妻を見ながら、ふっと口元を緩めた。
「、おまえも飲め」
「いえ、わたくしは」
「嫌いだったか?月夜の酒は格別だぞ」
「……ありがとうございます」
こうして微々たる量をもう何杯目か分らぬほどに飲んでいたので、すこし酔いが回って
いるのかもしれない。兼続は杯に並々注がれた酒を一口で飲み干すと、の持っていた銚
子をひったくって、自分の杯を押し付けた。はすこし困ったように微笑んだまま、良人
の酌を受けた。
「どうだ、旨かろう」
「はい、とても」
「ではもう一献」
「いえ…」
「もう一献」
「…」
は眉を八の字にしながら兼続を見た。彼は戸惑いがちな妻の顔を楽しむかのように笑
みを浮かべ、銚子を差し出してきていた。基本的に無理強いは好まない兼続ではあるが、
この時ばかりは引かなかった。なにか考えがあるのかただ酔っているだけなのか、には
分らない。
「先から私ばかり飲んでいる。おまえも飲め」
「あまり嗜みませんわ。眠ってしまうかもしれませぬ」
「構わん。たまには酔ってみよ」
もう、とは困った笑みを浮かべたままで、再び良人の酌を受けた。兼続の満足そうな
顔を見ると、しょうがないなという気持ちになってしまう。
「」
「なんでございましょう」
「杯に月が映っておる」
「それはそれは」
「見てみろ。綺麗だ」
「では」
が手を良人の後ろにつき、体をよじって彼に近づくと、ついた手をぐいと引っ張られ
てよろけた。体は良人の腕にすっぽりと収まってしまっている。
「か、兼続さま?」
「引っかかったな」
にやりと口角を吊り上げて笑うその顔は、が今まで見た中で最も幼いものだった。悪
戯が成功した子どもの顔なのだ。
回された腕が、腹の前で組まれる。背中に感じる温かい体がを安心させた。
「嘘をつかれたのですね」
「月を見るのに飽きたのだよ」
「飽きた?」
「しかし、お前はいくら見ても飽かぬ」
ついと黒髪を掬って弄ぶ。白い首筋が月光に映えて眩い光を放った。
「…」
軽々と体を持ち上げ、向かい合って座らせると兼続はの瞳を覗き込んだ。細められた
目が、微笑んでいるように見える。兼続は何も言わず両の手で彼女の顔を包み、静かに唇
を額に押し付けた。そして、ゆっくりと口付けながら口元へと下りてゆき、少しだけ開か
れた唇を啄ばみ、歯列をなぞった。の体がびくりと跳ねる。逃さぬように背中に回した
腕に力をこめると、胸に柔らかい手のひらが押し当てられた。
長い接吻のあと、唇を離した兼続は呆けたようにこちらを見上げると目が合った。上
気した顔と、微かに開かれた口元。胸に押し付けられていた手のひらは、少し下の腹の辺
りに当てられていた。とろんとした表情のまま、は頭を兼続の胸にもたげた。兼続は右
手でさらさらと黒髪を梳くと、逆の手で背中を撫ぜ始めた。
「」
「はい」
「寒くはないか」
「温こうございます」
「そうか…」
「お寒いのですか」
「…背中が少しな」
「障子を閉めましょう。お体が冷えてはいけません」
「いいや、それには及ばん」
「なぜ、」
の言葉が終わらないうちに、兼続は妻を抱えたままの格好で静かに畳に倒れこんだ。
「背中は寒くなくなった」
「兼続さま」
「上にはがいるから、温かいしな」
それに眺めもいい、と兼続は呟いた。はきょとんとしていたが、良人の視線の先を見
て、慌てて衿を直そうとした。兼続は口元を緩めながら、やんわりとその手を掴み、ごろ
んと位置関係を逆転した。困ったのはで、何が起きたのかわからないまま、腕を掴む良
人の顔を見た。
「」
「は、はい」
言ったきり、兼続はゆっくりとした動作で彼女の帯をするりと解いて、衿元を緩めた。
首筋から胸にかけて、白い肌が露出する。全ては剥がず、少しだけ肌蹴た着物から覗く肌
に手を伸ばした。冷たい手に、温かい肌が心地よい。しばらく触れたままでいると、が
控えめに声を掛けた。
「あの、兼続さま」
「なんだ?」
「寝所へ、参りませぬか」
「…も無粋なことを言う」
「へ?」
「見よ、月が綺麗であろう」
「…はあ」
「しかし、今のは月よりも美しい」
「あ、あの」
「もっと見たい」
「か、兼続さま」
それが人の胸をまさぐりながら言う台詞か、とは思わないでもなかったが、言うなり
本格的に体のあちこちを触れ始めた良人が気になり、言葉を飲み込んだ。こうなってしま
ったら、彼より非力な自分はどうすることも出来ないのだから。
「む」
背中に回された細い腕に、兼続は刹那動作を止める。妻がその気になってくれたのだろ
うか。
「」
くすりと笑いながらは答えた。
「お背中が寒いのではと思いまして」
兼続は口元を緩めたまま、言葉が抜け出た唇を啄ばんだ。
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花より団子というか、月より嫁さん。