吾が君
「稲は、いくつになった」
唐突に発せられたその言葉に、忠勝は油の切れた機械のようにぎこちなく顔を上げた。
その顔は相変わらず憮然としていて、主君の御前とは思えない愛想の無さである。
「稲が何か」
「齢じゃ、齢」
「十二になったばかりでござる」
ふむふむと家康は満足げに頷くと、少し体を忠勝の方へ寄せて、小さく言った。
「娘の相手をしてくれんか」
「は?」
忠勝にしては珍しい、素っ頓狂な声であった。家康は「稲さえよければ」と付け加えた
が、そんな事は問題ではない。いま、娘とかなんとか言ったか。
「姫君であらせられるか」
「ああ。稲より少し年上だが、何分からだが弱くてな、今日日やっと床を離れたのだ」
「…殿、稲は幼いながらも武芸者でござる。かような者を姫君のお側には、とても」
「そのほうが良いのだ」
「もしものことがあれば、どうなさるおつもりか」
「あれはお主に似てひたむきで賢い。は浮世離れした所があるから、稲から学んで欲
しいことが多いのだよ」
褒められたことに関する照れよりも、という言葉が気になって忠勝は口を開く。
「…?姫君でござるか」
「そうじゃ」家康はにこにこしながら答えた。どうやら姫は、主のお気に入りの娘ら
しい。忠勝は憮然とした態度を崩すことなく、稲の側仕えについて考えていた。娘は最近
やっとまともに弓を扱えるようになったばかりで、これからの修練が大切な時期である。
それを中止することは、稲の武芸者としての道を塞ぐことになる。彼女がそれを望むのな
らば、父としていう事は無いのだが、あの生真面目な娘が途中で修練を放り出すとはとて
も思えない。
「殿、お言葉でございますが」
「うん?」
「稲は殿の槍となるべく修練に励んでおりますれば、それを辞することは…」
珍しく言葉を止めた。彼とてそれ以上は言いたくない。厳しく育ててはいるが、可愛い
末の娘である。殿のお役に立ちたいという、幼い訴えを退けることは容易ではない。
「辞する?」
真面目な顔で刹那思考をめぐらし、家康はすぐに相貌を崩した。「側仕えをせよと言っ
ているのではないぞ」
「構ってやって欲しいのだ。少しの時で良い。わが娘に割いてはくれぬだろうか」
懇願するような目つきに、忠勝は押し黙ったまま目を閉じた。困った話だ。この命令
とも呼べないお願い事に、忠勝は揺れた。
「稲に」
「うむ。あれに聞いてくれ」
「…御意」
そうして、帰宅した忠勝は「稲でよければ!」という元気いっぱいの言葉を受けること
になる。
***
琴やら本やらが方々に散らかされただだっ広い部屋で、稀に見る美しい少女と利発そう
な黒髪の少女が対面していた。
「本多平八郎忠勝が娘、稲にございまする」
「と申します。わたくしの為にありがとう、稲」
「もったいないお言葉にございます」
「父上に無理強いはしないよう言ったのですが…稲、あなたは弓をやるそうですね。鍛錬
にも時間を割かなければならないでしょう?そのときは遠慮なく言って頂戴ね」
にこりと困ったように微笑む姿は、最近、父にしごかれてばかりであった稲姫に染みた。
「姫さまのお側にあるのも、弓の修練を致しますのもわたくしの務めにございますれば」
どうぞお気になさらず、と稲姫は平伏した。は目を細めながら「いい子ね」と言っ
た。稲姫は、その言葉に顔を赤くした。父や兄に褒められる時とはまた違った高揚感が、
胸の奥から湧いてきた。
「ところで稲。お琴は弾きますか?」
「はずかしながら、触れたこともありませぬ」
は顔を輝かせると、稲をつれて次の間に入った。そこには、良く磨かれた琴が鎮座
していた。
「わたくしもそれほど上手くはないけれど…稲、よければやりませぬか?わたくしとして
も、人に教えたほうが上手くなるような気がするのだけれど」
だめかしら、とは自分より小さい稲姫の顔をを覗き込むようにして言った。綺麗な
顔が近づいてきて、稲姫は言葉の意味も考えずに「ぜひ」と答えた。の安心したよう
な笑顔が見える。
「では、始めましょう」
稲のすぐ隣に座ったは、日に焼けた彼女の手を真っ白い手で取り、ゆっくりと弦の
説明を始めた。
***
「ち、ち、父上えええーっ」
「稲、騒がしいぞ。何事だ」
走り寄ってきた稲姫は、肩で息をしながら父を見上げた。その顔を見て、忠勝は一歩下
がる。何かを懇願するような目。今にも口元からあふれ出そうな言葉の数々は、一度漏れ
ると留まることを知らずに溢れ続けることを父は知っていた。
「待て、片付けねばならんことが…」
「父上ッ」
逃げようとする父の袖をしっかり掴み、稲姫はまばゆい瞳を父に向ける。この小さな手
からどうしてそんな力が出るのか。わが娘ながら末恐ろしい。
「今日、様に会うて参りました」
「うむ」
「姫さまはとってもお美しい方で…それに、お優しくって、稲のことを妹のようだと言っ
て下さった上に、お琴を教えてくださったのです」
忠勝はぴくっと眉を動かした。稲はそんな事は気にすることなく言葉を発し続ける。
「様は白くってほんわかしてて、御髪も真っ黒でさらさらで、笑ったお顔もすてきで
稲のことを呼んでくださる時のお声もほにゃほにゃで……」
とにかく、姫がべらぼうに可愛らしいという事と、稲に親近感を持って接している
ということだけは、何とか分った。しかし、ほにゃほにゃとは何なのだろうか。
頬に手を当てながら姫君の解説をしている稲はさながら恋する女子であったが、対象が
対象なだけに、忠勝は微妙な面持ちで話を切り替えた。
「琴…?」
「そう、そうです!お琴です!」
きゃあきゃあと一人で盛り上がっていた稲姫は、琴と聞くと表情を先ほどに戻して、父
を再び見つめた。きらきら、というよりも、ぎらぎらしているように見える。
「稲も、お琴が欲しいです」
「なに」
思わず声に出して驚いてしまった。あの稲が。武芸一筋で今まで芸事には見向きもしな
かったあの娘が。今日一日、ほんの少し爪弾いただけで。
「姫さまが、やるなら稲に教えると仰ったのです!」
「い、稲」忠勝は、飛び掛らん勢いでまくし立てる娘を抑えるように声を掛けた。
「姫さまといっしょにやりたいです。姫さまのお相手をつとめたいのです」
だから父上、お琴が欲しいです。と稲姫は迫った。仕事のためだから、という言葉を添
えられると、忠勝も無下に却下することは出来なかった。
(武芸のみというのもいかんしな…)
せっかく興味を持ったのだから、やらせてやろうと、忠勝は目を瞑りながら「わかった」
と答えた。少しの間があって、稲姫は「ありがとうございます、父上!」と叫ぶように言っ
た。娘の喜んでいる様子が、目を閉じていてもありありと分った。
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