淵酔
「さま、旦那様がお帰りに…きゃっ」
襖越しに掛けられて途切れた侍女の声が気になって、声には振り返った。そこには
正座している女と、その後ろにゆらりと佇む良人の姿。は驚く間もなく、ふらふらと
部屋に足を進めてきた良人を支えるように立ち上がった。目だけで侍女を下がらせると、
かなり酔っているらしい良人の背中に腕を回す。
「お帰りなさいませ」
「ああ、今帰った」
どっしりとした体は到底支えきられるものではなかった。せめて寝所には誘導しなけれ
ばならないのだが、だんだん力を抜いてきている良人の体は鉛のように重い。
「…」
「はい?」
今はそれどころではない。が、左近は容赦なく体躯を彼女の方へ傾けてくる。
「」
「な、なんでございますか」
肩を貸していたに左近はしなだれ掛かった。ずしんと重みを感じると、次の瞬間、
は良人の下敷きになっていた。
「っ!」
はっ、と息が漏れる。背中に伝わる振動は普通のものではない。自分の倍はあるであろ
う大きな体が、ぴったりくっついて乗っているのだ。はなんとか抜け出そうともがく
が、良人はぴくりともしない。
「左近さまあ」
「ううん」
「ど、どいてください。苦しいです」
自分の真横で畳と接吻しかけている良人の耳に声を掛けるが、左近は全く動かない。手
を動かそうとしてみるが、どうやら彼に手首を掴まれているらしい。足も、ちょうど股あ
たりに左近の足が嵌っていてびくともしない。酒のせいで熱くなった体はなんともいえず
心地よかったが、胸の辺りを圧迫する重さのせいで汗が噴出しそうだった。
「もう、どいてくださいまし……ひゃ!」
重さで疲れていた体が急に跳ね上がる。見ることは出来ないが、左近の足が、自分の両
足の間で動いたようだ。それに同調するように左腕が動き、彼女の二の腕を通過して、胸
元に伸びる。体が少しだけ離れて、は大きく息を吸った。何が起こっているのか分ら
ないわけではないが、この状況ではあまり頭が働かなかった。
「どいてくださいまし」
「つれねえなあ」
顔を上げると、左近としっかり目が合った。目が、据わっている。
は頭の中で警鐘が鳴っているのに気づいたが、手首も足も固められて、もうどう
しようもなかった。なんとかしなければ、と考えているうちに、胸元で止まっていた左近
の左手が再び動き出した。衿の下にするりと手を入れて、やわらかいまろみに到達する。
「さ、左近さま!」
が吃驚して声を上げても、彼はにやにや崩れた顔を元に戻そうともせずに胸元をま
さぐった。その間に彼女の両手首を掴んで、頭の上で拘束する。まな板の上の鯉となった
は、残る足を蹴り上げようとするが、どうにも届かない。ぐちゃぐちゃになった二人
の着物が、足元で絡まっていた。
「や、やめてください」
「…嫌か」
刹那細められた瞳と、背筋も凍るような声音にはびくっと体を震わせて瞳を閉じた。
家の内ではめったに怒るようなことをしない良人の豹変ぶりが、ただただ恐ろしかった。
「あの、ここは…」
行為をすることが嫌というよりも、場所と間合いが悪い。今日は主と飲み明かすから先
に寝ていろといったのは左近なのだ。
(勝手に帰ってきて……これはひどいわ)
本来ならば早く帰ってきたことをもっと喜ぶべきなのだろうが、酔っ払いはたちが悪い。
男の扱いになれた遊び女ではないのよ、とは良人を睨むふりをしてみたが、やはり恐
ろしいので、瞳は閉じられたままだった。
「誰も来ないだろ」
「でも、お布団が無いと」
内容が逸れてきたことには気づいたが、ここまで来てしまったのなら仕方が無い。
畳が擦り切れないかしら、と刹那考えて、次の瞬間真っ赤になった。
左手は彼女の胸元をまさぐったまま、左近は両手首を掴んでいた右手を離し、彼女の背
中に右腕を入れ込んで持ち上げた。くるりと方向転換した彼の胸の上に、の体が乗っ
た。を見つめるその顔は、もうぐずぐずに崩れていて、険しい表情は欠片も残ってい
なかった。
「おれが下なら大丈夫だろ」
なあ、、と後頭部を押され、鼻と鼻がくっついた。は恥ずかしくて硬く瞳を閉
じていたが、甘ったるい良人の声に負けて、細く瞳を開いた。眉の下がった左近が、懇願
するような目でこちらを見ている。
「し、しりませ…きゃんっ!」
「なあ、…」
右腕がの臀部に伸び、動く。は呆れながらも、流されている自分の体をどうす
ることも出来ず、皺を寄せた顔を良人の胸に押し付けた。
「さ、左近さまのせいですからね」
「なにがだ」
「わたしはべつに、その、した……あっ!もう、こそこそ触るのはやめてくださいまし!」
「うん。ちゃんとする」
がしまった、という顔をしている間に、左近は彼女の体を実に楽しそうな顔でまさ
ぐり始めたのだった。
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左近の奥方さまは茶々っていうらしいですよ。