約定破りのふたり
「なに?」
稲の報告を聞いた忠勝は、眉をひそめた。
「四、五日ほど前から臥せっておられたのですが、今日はご気分が宜しかったようでお目通りが適いました」
「臥せっておられたのか」
稲がはいと答えると、忠勝は抱きしめれば折れてしまいそうなあの華奢な体を思い出し
た。生まれつき体が弱く、散歩ですら満足に出来ぬあの姫君は、忠勝が主の次に宝としている人である。
「夏風邪とはおいたわしい」
「お顔もいつも以上に白うなっておいでで、すこし痩せられた様にお見受けしました」
「そうか」
「殿もさぞかしご心配なされて…」
稲ははあ、とため息をつきながら言った。
「…稲、ご苦労」
「いいえ。様が父上にくれぐれも心配せぬように伝えよと仰せでしたので」
「そうか」
稲はそっと立ち上がると、軽く頭を下げて出て行った。残された忠勝は、ぼんやりと彼
の人のことを考える。前に約定した散歩の日が、すぐそこにまで迫ってきていた。
(御身を大事にしていただかねば)
表情こそ崩していないものの、本当は今すぐにでも駆けつけて御手を取り、大事ありま
せぬか、忠勝が付いておりますぞとでも枕元で叫びたい気分だった。別に死にかけている
わけではないが、どうもを見ていると咳ひとつ、くしゃみひとつでも気が気ではない
のだ。姫とは、近しい人間にとにかく世話を焼きたくなるような感情を持たせる姫君なのであった。
(とにかく養生していただかなければ)
そうして、十日経った。
朝議を終えた忠勝は、稲との鍛錬のため戻ろうとしている所を主に捕まった。
「殿、どうなされました」
「…がな」
その名を聞くや否や、忠勝は睨みつけるような鋭い眼光で主を見た。家康は膝を指で打ちながら、言いにくそうに口を結んでいる。
「姫がどうかなされたか」
「長う臥せっておるのだが…その、おぬし…と出掛ける約定を交わしていたそうじゃな?」
「はい」
「それで、約定の日と言うのがもう過ぎておるのだな?」
「左様ですが…」
主が何を言いかねているのかさっぱり分らない。
「殿、はっきり申してくだされ」
「うむ…がな、約定を違えて申し訳ないから謝りたい、と聞かぬのじゃ」
忠勝は面食らった顔で「はあ」と間抜けな声を出した。
「わが娘ながらなんと律儀なことよ」
「しかし殿、姫君のお体に触るのではありますまいか」
家康は渋い顔をして頷いた。それが全てを語っていたので、忠勝は合点がいった。
(様の願いなれば伝えぬわけにはいかぬが、体を思えば安静が必要…)
「治ってきてはおるのだ。あとは寝ていれば二三日で良くなると」
呟くように言うと、忠勝が幾分急かす様に問うた。
「それで、拙者が参ってもよろしいのか」
「……」
家康は黙り込んだ後、盛大なため息を吐いた。
「よろしく頼む。無茶はせんとは思うが、気をつけて遣ってくれ」
「御意」
部屋を出る主の背中を見つめながら、この方の憂慮も尽きぬなと忠勝は思わずにいられなかった。
***
「失礼いたす。忠勝にござる」
はい、とか細い声が聞こえる。けほけほと咳き込む音に、忠勝は眉をひそめながら襖を
開いた。白い布団に包まれたが、弱弱しい笑みを浮かべていた。
忠勝が布団からはすこし離れた場所に腰を下ろすと、不満そうな顔をして「近こう」と
白い手を振った。が不満の表情を浮かべることは滅多にない。忠勝は珍しいものをみ
た心境での枕元まで寄った。の顔を見れば稲の言っていた通り、平生も雪のよう
に白い顔がもっと青白くなっている。
「お加減は」
「大分よいのですよ。でも皆が心配して庭を見ることもできないのです」
ぴったりと閉じられた障子に目を遣りながら、は苦笑した。そして忠勝の方にゆっ
くりと視線を投げると、眉を下げて「ごめんなさい」と言った。
「せっかくの約定を反故にしてしまって…ずっと楽しみにして、体にも気を付けているつ
もりだったのです」
暗い顔で言葉を繋ぐことをやめたに、忠勝は表情を緩めた。この姫君をこんなにま
で後悔させているのが自分との約定だと思うと、不謹慎ではあるが優越感がある。
「御身の方が大切にござる」
布団からはみ出している白い手を掴む。はびっくりして忠勝をみるが、かすかに微
笑む彼に、おずおずとその手を握り返した。
「…ごめんなさい。忠勝」
「滅相も。良うなられたら、またお誘い申し上げる」
「ほんとう?」
は起き上がらんばかりの勢いで、忠勝を見つめた。
「この忠勝が嘘を言ったことがありまするか」
「いいえ!…すぐに治しますから、待っていて下さいませ」
繋いだ手を嬉しそうに両の手で握り返してくるを可愛らしいと思いながら、忠勝は
「ではこれにて」と腰を上げようとした。
しかし、手を離そうとしないに気が付いて、彼女を見た。上目遣いでそっとこちら
を見つめている。
「どうなされました」
「……あの…」
忠勝が再び腰を下ろしたことを確認すると、は俯きながら囁くような小さい声で何
事か言った。
「何と申されました」
忠勝がずいと顔を近づけると、は白い顔をほんのり朱に染めながら「まだ居てくだ
さい」と呟いた。繋いだままの手が、ぎゅっと握られる。
「お話はその、別にいいのですが…一人で寝るのは…その」
布団を鼻の上まで被って、は視線を逸らす。そこまで聞くと、忠勝は己の手を握る
小さな白い手をそっと握り返した。
「承知」
安心したは、目を閉じて隣に座っている忠勝を見ながら、そっと瞼を閉じた。
寝息が聞こえると、忠勝は閉じていた瞳を薄く開いてを見た。ぐっすり眠っている。
(よう眠られておる)
の手が、まだしっかりと己の手に繋がっている。
(毎日何もせず寝てばかりでは、さぞかし心細い思いをなされたのであろう)
いくら侍女が世話を焼き、父が見舞いに来ても、皆眠るときには周りから姿を消してし
まう。呼べばすぐに出てこられる所に居るとはいえ、広い部屋に一人で一日中眠るだけの
生活は、彼女にとって厳しいものがあるだろう。
手を繋ぎ、隣に居るだけで彼女の不安が和らぐならば、出来る限り長い時間そうしてい
たい。言葉は無くとも、顔を見るだけでも、触れ合うだけでも、自分は満たされるのだか
ら。
「姫、忠勝が付いておりますぞ」
言いたかった言の葉がするりと抜け出ると、二人を繋ぐ白い手が微かに動いたように忠
勝には感じられた。
***
「…稲、どうした」
「半蔵さま!父上を見かけませんでしたか?」
稽古をつけてやるといって全く帰ってこない父に、痺れを切らした稲はすこし気色ばみ
ながら半蔵に問うた。
「忠勝はまだ帰っていないのか」
「まだ?どういうことですか」
つかみ掛からんばかりの剣幕の稲に体を引きながら、半蔵は忠勝が家康に呼ばれたこと
を話した。言ってよかったのかどうかは分らなかったが。
「殿に?じゃあ、殿ならばご存知のはず」
「稲、忠勝は…」
「ありがとうございます、半蔵さま!」
嵐のように走り去った稲に、半蔵はため息だけを残して消えた。
「殿!」
「うん?…稲よ、どうした」
「父上をご存知ありませぬか」
家康は目をぱちくりさせながら「まだ帰っておらぬのか」と言った。
「殿も半蔵さまと同じことを申されますね。父上は何をしているのですか?」
稲の並々ならぬ剣幕に、家康はすこし引きながらも理由を聞いた。
「一体どうしたというのだ」
良くぞ聞いてくれましたといわんばかりに、稲は朝議の後忠勝に稽古をつけてもらう予
定だったことを話した。それを聞いた家康は苦笑する。
「そうか、そうであったか」
「?」
「稲、忠勝の元へ行ってみようか」
「ご存知なのですか?」
「ああ」
悪戯っぽく微笑むと、家康は稲を連れて部屋を出た。
「?……殿、ここは様のお部屋では?」
「わしの予想ではここだと思うのだがな…よし、稲。ここからは静かに」
稲は無言で頷くと、家康の後をそろりそろりと付いて行く。なぜこのように潜まなけれ
ばならないのかと思いながら。
の部屋まで来ると、家康は端の襖を少しだけ開いて中を窺った。端の方に大きな体
と白い布団が見えた。稲にも覗かせると、家康の顔を見て笑った。
(そういうことだったのですね)
(うむ。しかし、忠勝は動かぬの)
(……あ、殿、動きました)
(おお……ん?…あれは)
襖の隙間から覗く二人は、忠勝の動きが不自然なことに気がついて顔を見合わせた。
「寝てる…?」
思わず漏れ出た声に稲と家康は互いの口を塞ぎあって、突然ぐるりと顔をこちらに向け
た忠勝から隠れるように伏せた。
(ば、ばれてしまったでしょうか?)
(動かなければ大事無い…と信じたいな)
(と、殿…)
(なんじゃ、そのように動いては……おお?!)
(にににに逃げましょう!)
(う、うむ)
ばたばたと床を泳ぐように逃げようとする二人の後ろから、忠勝がゆっくりと近づく。
やがて襖がするすると開き…
(とととと殿ぉ!)
(こ、これ稲、わしの後ろに隠れるとは卑怯な…)
ぎろりと大きな瞳が光った。
(ひええええっ!)
「………」
屋根裏から一部始終を見届けていた半蔵は、再びため息だけを残し、音も無くその場を
去ったのであった。
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徳川ファミリーいいな!書きやすい。
なんかアットホームな雰囲気でまくりです。