悪夢
踏みしめたそこは、ぐにゃりと歪んで
の足を止めた。ぬかるみの様な生々しい感触に思わず足元に視線を向けるが、真っ暗闇の中では何も見えなかった。
遠くに聞こえるざわめきは歩けど歩けど決して近づくことはなく、不明瞭な音声を聴覚器官に残すばかりで、
は見えない闇の中を震えながら進む。声を出そうとしても、誰を呼べば良いのか分からない。自分はまた一人ぼっちになってしまったのだろうか?そう古くは無い焼け焦げた記憶を取り出しかけて、すぐ仕舞った。
「フォートレス…」
は忌まわしい記憶から救ってくれた信頼する男の名を呼んだ。その名を口にすると、不思議と震えは小さくなっていくように思えた。自分を救ってくれたあの大きな手と優しげな声を何度も再生して、
はゆっくりと先へ進む。止まるとぬかるみに嵌って、二度と戻れないような気がして恐ろしかった。
ずるずると足を引きずるように歩く彼女の肩に、ひたりと何かが触れた。
は振り返りもせず走りだそうとしたが、もう片方の肩をぐいと引かれてつんのめった。
「あッ!」
そのまま力任せに体を引かれ、ぬるりとした暗闇に押し倒される。すると、どこからともなく幾本の腕が伸びてきて、
の体を押さえ付けた。
「や、やだっ」
するすると体を這うその手に、
は必死に手足をばたつかせる。ミサイルを撃とうとサーキットに命令を送っても、がちゃんと軽い装填音が空しく響いた。
手はやがて彼女の装甲を剥がしにかかり、無残な音が暗闇に跳ね返って
の聴覚器官を苛んだ。痛みは感じないが、エラーデータが積み重なって起こるような処理の遅れ――息苦しさ――が一気に襲ってきた。
「ッは、ふぁ」
装甲を剥がした下にある繊細な回路に手が触れる。べちゃりと形を変えて回路を侵蝕する暗闇は、閉じ込めていた忌まわしい記憶の扉をじわじわ溶かしていく。漏れ出るようにぽたぽたと蘇る記憶は、暗闇の手に感触を与えて
を侵した。
「いや、いやだ、やだッ!」
圧し掛かる暗闇はゆっくり色づき始めて、頑強な装甲をまとった鈍色の姿を現した。遠くで聞こえていたざわめきが近くなって不愉快な笑い声が響く。足の間を這い回っていた硬い指が何かを探し当てたかのように同じところを擦り上げると、どうしようもなく強張ってしまった体を動かすことができずに、
は必死に叫んだ。
「たすけてフォートレスっ…!…たすけ、て…た、」
アイセンサーがいつしか機能を果たさなくなり、聴覚器官にノイズ交じりの音声が届く。
――こ…つは…いい…よ…し、ケ…ブ、ル…繋げ!
――…持ち…イイ…か…よ?…
――ま…だ…バテ…な…よ。あ…と五…も残って……だか…な
情報伝達が著しく遅れ、パンク状態のブレインサーキットは溶けてしまうのではないかと思うほど熱い。このままではおかしくなってしまう。
はひたすらフォートレスの名を呼んだ。
たすけて、たすけて…
「フォートレスっ」
がばりと思いきり起き上がった
は、エネルギー補給用のベッドのガラスにしたたかに額をぶつけた。
すっきり片付けられた部屋を一点の曇りもなく映し出すアイセンサーに、
はほっと胸を撫で下ろした。ベッドから起き上がり、体中にスキャンを掛けながら自身でも触れて異常がないかをチェックする。
生々しい夢だった。感触まで思い出せそうで、
はブレインサーキットから件の記憶を消し去ろうと命令を送る。アイセンサーに消去完了の文字が浮かぶが、一向に感覚が消える気配がない。まだ体中を手が這い回っているようで落ち付かなかった。
(気持ち悪い…)
エネルギー残量を見れば、補給前からあまり変わっていなかった。”悪夢”のせいで、補給したエネルギーが消費されていたのだろうか。
もう一度横になろうと
は体をベッドに沈めたが、ずぶずぶとクッションに沈む感覚が闇のぬかるみのようで思わず飛び起きた。このまま沈んでしまったら、きっとまた暗闇に飲み込まれる”夢”を見るかもしれない。
は少し考えた後、ベッドから降りて部屋を出た。
***
指揮をブレインストームたちに任せて、フォートレスは自室で黙々と資料を読んでいた。セイバートロン星のこと、サイバトロンのこと、デストロンのこと…とにかく分からないことだらけで、貴重な休息の時間にもフォートレスは過去のデータを読み漁るのに夢中だった。
コンボイ司令官の戦歴を読み終えたところで、フォートレスは展開していたデータをたたみ、ふうと一息ついた。データの読み込みは決して楽なことではないが、そこから得るものは大きい。きっちりと腰掛けていた体をくつろげて頬杖をつくと、不意にセンサーが反応した。ちょうど部屋の前あたりで、うろうろと動き回っている反応があった。
通り過ぎるだけならば該当する対象は多いが、こうもウロチョロ動き回る反応は初めてだ。デストロンではなかろうが、油断はできない。センサーの感度を上げて対象を識別する。すると、サーキットは一瞬にして答えを彼に示した。
(
?)
ドアの前で行ったり来たりしているのは、識別コードからして
以外有り得ない。フォートレスはなぜ彼女が自分の部屋の前でヒマを持て余しているのか分からずに、立つことも忘れてその反応を追った。
しばらく見ていると、ある時ぴたりと彼女の動きが止まった。フォートレスはセンサーではなく廊下に設置されたカメラをコンソールに映し出して、彼女を見た。
は不安げな表情で己を抱くように立っており、ドアのボタンを押すか押すまいか躊躇しているようだった。
震えだすのではないかと思うほど不安げな
の姿が映ると、フォートレスは居ても立ってもいられなくて何も言わずにドアを開けた。ドアの前で悶々としていた
は不意に現われた彼にびっくりして、思わず後ずさった。
「フォ、フォートレス」
「どうしたんだ?さっきからウロウロして」
できるだけ優しく問うと、
は顔を俯けて黙った。何事か話そうと唇を動かそうとはしているようだったが、それが言葉となって聴覚器官に届くことは無かった。
詮索が過ぎると
を逃がしてしまうような気がして、フォートレスはそっと彼女の頭を撫でた。
は黙ってそれを受け入れていたが、しだいに小さく体が震え始めて、拳を握り締める音がした。
「辛いことでもあったか?」
両手で顔を包むと、
はそっとフォートレスを見上げた。歪められた唇からはフォートレスの名がこぼれ、
はぎゅっと彼の腰に抱きついた。突然のことにフォートレスは驚いて、思わずアイセンサーを明滅させたが、彼女はそんなことお構いなしに力いっぱいに抱きついてくる。見下げた先にある小さな背中をフォートレスは閉じ込めてしまいたいと思った。
「とにかく部屋においで。ここじゃ皆に見られるからな」
の腰に手を当てて、フォートレスは庇うようにして部屋へ入った。
「さあ、座りなさい」
作業机越しに彼女を座らせようとすると、いやいやとかぶりを振って反対されてしまった。
「どうした、ずっと立ってる訳にもいかんだろう」
腰に抱きついたまま離れようとしない
を無理やり引き剥がすわけにもいかず、フォートレスは少し考えてから、コンソールの前にある大きな椅子に座り彼女を膝の上に乗せた。フォートレスの胸にぴったりと顔をくっつけて、
はおずおずとアイセンサーを上向けた。柔らかい光を湛えたフォートレスの視線とかちあう。
「
」
「…」
は何も答えなかったが、フォートレスはそれ以上言及することはせず、先ほどよろしく優しく頭を撫でた。きゅん、と
のブレインサーキットから音がなった。
「……フォートレス」
「ん?」
「あのね、さっき…こわい夢を見たの」
「夢」
「うん…」
の言葉を待ちながら、フォートレスは彼女の表情が曇っていくのを見た。ブレインサーキットが唸っていて、おそらく思い出したくない――彼女がフォートレスと出会った時の――ことを思い出しているのだろうと何となく思った。彼女が暗い表情を見せるのは、大抵それがらみのことが多いからだ。
「真っ暗のなかを歩いてると沢山の手に捕まっちゃって……装甲がめくられて、回路の中に入られちゃうの…それで、それでね…」
は次の言葉を紡ごうとしたが、うまく言えずにカタカタ震えて俯いた。その先は誰にも知られたくない辛い記憶だった。フォートレスは黙ってそれを聞いていたが、嗚咽を漏らし始めた
をそっと抱きしめて「怖かったな」と言ってやった。
「だが、もう大丈夫だ。ここには暗闇も手もない」
フォートレスが
の背中をあやすように軽く叩く。
は止め処なく溢れてくる暗い記憶に蓋をする事ができそうになくて、彼に抱きついてそれを抑えた。フォートレスが体に触れるたびに零れ落ちる記憶が霧散していくような気がして、
は背中を撫でているのとは違う方の彼の手を取った。
「?」
「もっと」
恥ずかしそうに俯きながら、小さな声で
は「もっと撫でて」とせがんだ。ぱちくりと人間のようにアイセンサーを明滅させて、フォートレスは
を見つめた。しかし、彼女が恥ずかしそうに俯いているのでそれ以上は何も言わず、ただ静かに微笑を湛え、頭やら頬やらを撫でてやった。
意味を成さない電子音が控えめに鳴って、
は体から少し力を抜いてフォートレスにもたれかかった。そこまで体格差があるわけではないが、やはり自分より大きな体の彼に抱かれているとひどく安心する。
「こわかったけどね、フォートレスを呼んだら目が覚めたの」
「私を?」
「あの時もフォートレスが助けてくれたから、夢の中でも助けてくれると思って」
彼女と自分が出会った時のことを思い出してフォートレスは表情を曇らせる。出会いの仕方は最悪だったかもしれない。襲われてぼろぼろになっていた彼女を助けた時のか細い拒否の声と、自分を恐れて後ずさる姿。いたたまれなくて、今のように無言で抱いて半ば無理やりに連れ帰ったのだ。
しかし、フォートレスは彼女にそう言って貰えたことが嬉しくて、そうかと答えると頭を撫でた。
は猫の様に気持ち良さそうな表情で頬を擦り付けた。
「私でいいんなら、いつでも呼べばいい」
「うん」
ありがとう、と答える
の顔から、不安が少しずつ薄れていく。フォートレスはほっと胸を撫で下ろした。ドアの前で不安げに立ち尽くしていた彼女を見たときはいったいどうしたのかと心配で溜まらなかったが。
「…」
「どうしたの、フォートレス」
黙り込んだフォートレスに
が問うと、彼は控えめに「悪夢はいつもなのか?」と逆に問われた。
「いつもじゃないけど…でも一人のときはよく見る」
リペ
ームなんかで他のメンバーとエネルギー補給をしているときには、悪夢を見ないと
は言った。そういえば、彼女のエネルギー補給はきちんと出来ているのだろうか?フォートレスは彼女をスキャンしてみる。すると、補給をすると行ってブリッジを出た時とほとんど変わっていなかった。
「
、補給が出来ていない」
「こわくて起きたらすごく疲れてるの…だから、たぶん回復してないんだと思う」
再び
の表情が曇ると、フォートレスはどうしたもんかと暫し考える。クロームドームたちと一緒に補給ができれば良いのだろうが、他のメンバーにもプライベートがあるのだからおいそれと頼むわけにも行かない。それに、彼らが無防備な状態の
を前にして間違いを起こさないとも限らない。
だってまだ男性型に対する恐怖心は完全に消え去っていないだろうし、なにより自分自身がそんなシチュエーションを許せそうにない。
「誰かと一緒なら見ないんだな?」
フォートレスの言わんとしていることが何となく分かって、
はゆっくり頷いた。
「じゃあ、私がエネルギー補給をするときにきみも一緒にすることにしよう」
それなら怖くないか、とフォートレスは
のアイセンサーを覗き込んで言った。
は暗い表情を押しのけるような大きな声で、うんと答えた。
「ありがとう」
初めて唇がふわりと自然な曲線を描き、
はフォートレスに笑いかけた。
「いや、安いものだよ」
「?」
なにが、と問うた
の頭をよしよしと撫でて、フォートレスはいいやと言葉を濁した。
(きみの笑顔が見られるのならばね)
***あとがき***
需要なにそれたべられるの?^q^
まさかのヘッドマスター司令官・フォートレスでした。はい。
渋いおじさん大好きです。真面目でお堅くて攻めより守りな司令官もえる。
声がカッコイイんです……ぜひ見てみてください…6話「悪魔の隕石接近」はダニエルをあやすフォートレスの変顔を
見ることが出来るレア回です。