朗声(あかるいこえ)
「が結婚?」
思わず立ち上がった従兄に、曹操は腕組みをしたまま頷く。机の上にある杯が揺れた。
「悪くはない相手だ。もそこそこ乗り気らしい」
「しかし」
愛しい従妹の顔を思い浮かべ、夏候惇はどすんと音を立てて座った。
は、彼らの親族であり幼馴染みであった。そして、それ以上に愛おしい存在でもあった。
そんな彼女に婚儀の話が舞い込んだのは、これが初めてではない。と契れば曹操とのつながりが強固になるのは必定であり、戦場に出ているとはいえ、彼女も女。世継ぎを残せばその将来は約束されたようなものであった。
しかし、を取り巻く環境は少し変わっていた。
戦略的に契りが必要であれば、曹操はもっと早くにを嫁がせていただろう。だが、曹操にはそれができない理由があった。
「いいのか」
そうは聞くものの、視線はやめさせろと言わんばかりに鋭く曹操に刺さっている。彼にとっても、を嫁がせることは不本意なのだ。
幼いころから親しんでいる従妹。成長するにつれ、その思いはある種の熱を帯びていった。彼女が得意の武芸でもって戦場に出ることを否定しなかったのも、一つはそうすることで自分たちの手元に置きたかったからかもしれない。
「本人が乗り気でないのなら考えるが、思いのほかがな・・・」
今まではそれとなく断り、反故にし、避けてきたの結婚。彼女はいままでそういったことにあまり興味を示さなかったが、今回は違うらしい。
夏候惇は少し驚き、それからひどく落胆したように頸を垂れた。
「が決めたことか」
「そうだ」
向かい合った二人の男は、杯にある酒に口を付けずに黙り込んだ。
***
「おめでとう、」
「幸せにな」
「体を厭えよ」
「いつでも帰ってこい」
「孟徳ったら!」
笑い声がする。
はいつもとは違う可憐な衣装に身を包み、従兄たちと飲み交わしていた。こうして何の気兼ねもなく集まれるのも、これが最後なのかもしれないと思うと、は目頭が熱くなった。
「なんだ、。泣いてるのか?」
夏侯淵がの肩を抱いて顔を覗き込んだ。いつもならすぐ言い返されるところが、一つの言葉も返ってこなかった。
鼻が触れるぐらいに顔を近づけると、の瞳は揺らめいていた。きゅっと引き締めた唇がなんとも健気で、仕舞い込んでいた熱がかっと吹き出すようだった。
「淵、抜け駆けはなしだ」
曹操が夏侯淵の首根っこをぐいとつかみ、二人の間に割り込んだ。曹仁が苦笑しながら
「はもう駆け引きとは無縁ですぞ」
と口を挟むと、むっつりした顔での腰に手を回す。細い腰だがやわらかい感触のある彼女の体と、しばらく離れるのだ。触れずにいられようか。黙って自分を引き寄せる従兄に、は涙をぬぐい、口元に笑みを作る。
「孟徳」
「なんだ」
「幸せになるからね」
さっきまで涙を浮かべていた瞳が、今度はとろけるような笑みを湛えている。家族と別れるさみしさと、これから訪れる幸せな日々を思ってか、その笑みは侵しがたい美しさを持っていた。しかし、彼の心中は穏やかではない。
「」
「なあに」
酔っているのか、はたまたわざとなのか、熱っぽい視線を向けられて、はすこし身をこわばらせる。曹操の手が彼女の頬を撫で、愛おしそうに額へ唇を寄せる。それから腕の中に閉じ込めて、髪へ顔をうずめた。
「孟徳」
夏候惇が諌めるように低く声を発した。困ったように己を見つめてくるに目配せする。
「が困っている」
「お前だって」
したいのだろうが、と曹操が呟けば、は困ったように笑い、夏候惇はフンと鼻で笑った。
笑ったつもりだった。
「孟徳、酔ってるね」
「わしは酔っとらん」
「ねえ惇兄」
「そうだな」
「うるさい」
ぎゅうと締め付ける曹操の腕を撫でて、は他の従兄たちをみた。
神妙な顔をしている夏候惇。顔は笑っているのだが、どこかぎこちない夏侯淵。いつもと同じ優しい笑みを浮かべながら見つめてくる曹仁。
嫁ぐ前というのは、やはりさみしさを伴うものなのだろう。
は腕の中の幼馴染を抱きながら、ぽとりと涙を落とした。
***
ふと、目が覚めた。
白い服が寝台に放り出されている。
葬儀は終わった。
隣にいたはずの男は跡形もなくこの世から消えてしまい、胸の内をえぐられるような衝撃のあとが、まだ残っていた。
幸せだったかはよく分からない。だが、好きだった。
昔とは違う幸せだったけれど、穏やかだった。
嫁ぐ前は、従兄たちがいた。嫁いでからは、夫がいた。
でも、今は誰もいない。
子もない自分がどうやって戻れようか。戻ったとて居場所があるだろうか。
笑い声がする。
耳の奥に残っている、従兄たちの声。曹操を囲んで、他愛もない話に花を咲かせ、皆が笑っていた。
夫の顔が思い出せないのはなぜだろう。すっぽりと抜け落ちてしまっていることに、は恐ろしさを感じて身震いした。
不意に涙がこぼれる。
自分はとても幸せだったのだ。
そろえばいつも朗らかな笑い声が聞こえていたのに。
今はもう、聞こえないのだ。