遥相呼応(とおいよびごえ)
夫と死別したを連れ戻すのは簡単だった。しかし、どこかぼんやりとした彼女を振り向かせることは、なかなかに難しかった。
「」
手折った花をもてあそびながら、曹操は従妹を呼んだ。
私室からのみ入ることができる小さな庭園は、曹操の安らぎの場であり、時には妻や従妹と語らう場でもあった。
庭園にある亭にいたは、曹操の呼びかけには応えなかった。その瞳はこの世ではないどこかへ向けられているように、ぼんやりとしていた。
「」
隣に座り、肩を抱く。すると、ふっと瞳にあった翳りが薄くなって、それから曹操を捉えた。ふんわりと微笑むその表情を素直に愛しいと思えず、曹操は眉を顰める。
「孟徳」
良い天気だね、と視線を逸らして言う。白い横顔は、昔と変わらず美しかった。耳のあたりから首筋にかけてのまばゆいばかりの白さは、今すぐにでも喰らいついてしまいたいほど魅力的だった。
しかし、そこには自分が好きだった快活な表情が抜け落ちている。今は彼女をいたわってやらねばならない。優しく包み込むような愛情を注いでやらねばならない。
わかってはいるのだが、またとない好機を前にして、己の心では秘めていた想いが燃え上がっていた。
誰かが叫んでいる。
手に入れてしまえ。誰に気兼ねすることもない。ここにはお前しか居ない。
遠くから、昔の自分が呼んでいる。
抱いた身体を引き寄せると、空いている手で頬を撫で、するりと顎を掬う。見つめるの瞳に自分が映っているのが見えた。
物心ついたときから一緒だった。素直で明るいに、従兄たちは魅了されていた。体も心も女らしさが付いてくるようになると、その思いは皆同じで、だれが彼女を娶るかなどという談義で火花を散らしたりもした。
思わせぶりで、それを自然とやってのけてしまう彼女に虜にされて、のめりこんだ。それはほかの従兄たちも同じで、下世話な話もした。しかし、誰も決して一線は越えなかった。それが、彼らの暗黙の了解であるかのように。愛でることはあっても、手折ることはなかった。
額に口づけ、それから頬へ。耳にも唇を寄せると、がぶるりと震えた。ほんのり上気した肌が艶めかしい。いつもは健康的な魅力にあふれているが翳りのある美しさに染まる様は、どこか背徳感があって、言いようのない悦びを彼に与えた。
その反応がたまらなくて、音を立てて耳から唇をずらしていくと、不意に胸を押された。
「どうした」
「だめ」
ここまで許しておいて何を言う、と心中でつぶやきながら、しかし彼女に遮られたら強くは迫れず。手に入れてしまえという声は、遠くなっていた。そして、自分がしようとしていたことを思い返し、小さくため息を吐いた。
少しだけ腕の力を緩めると、の纏う気が、やわらかくなった。
「これぐらいは許せ」
「あ、もうと」
ふわりと体が浮いたかと思うと、は曹操の膝の上に乗っていた。横抱きにされて、切れ長の瞳に見つめられると、疎いでもさすがに頬を染めた。
「ん」
また額に口づけられる。抱きしめられて髪を撫でられると、何とも心地が良い。
昔からそうだった。曹操という男は、人を安心させる術を知っているのだ。
泣いているとき、怯えているとき、曹操に抱きしめられて言葉を掛けられると、いつの間にか不安はどこかへ行ってしまうのだ。
「孟徳」
「ん?」
「私、また戦いたい」
そうか、とすぐ頷いてはやれず、曹操は押し黙った。反対していた婚礼だったが、彼女が戦場から離れ、命の危険にさらされることがなくなったことは、曹操をはじめ従兄衆たちが唯一と言っていいほど認めざるを得ない利点であった。
しかし、彼女は彼らのもとへ戻ってきた。そして、また命を懸けた戦いに身を投じようとしている。
これならば、誰かのもとへ――否、自分の手元においておく方が良いのではないか。これ以上彼女が傷つき、悲しむくらいなら、閉じ込めてしまった方が良いのではないか。
また、誰かが叫んでいる。
お前のものにしてしまえ、と。
「孟徳の目指す天下に、また、みんなと一緒に行きたい」
ぼんやりとしていた瞳は、今では昔の輝きを少し取り戻しているようにも見える。ついと向けられた視線に、曹操は思わずたじろぐ。
「また、命を懸けた戦いに行きたいのか」
「皆で一緒に行こうって、決めたじゃない」
お願い、行かせて、とが顔を寄せる。しばらく逡巡していた曹操はその頬を愛おしそうに撫で、呟いた。
「まず、身体を治せ。それからだ」
抱いた身体は前よりも細い。柔らかい感触も、どこか頼りない。
「ここなぞは小さくなっているのではないか」
ん?と言いながら胸をまさぐろうとした曹操に、ははっとなって、彼の名を呼んだ。
「そうだ、。お前はそうでなくては」
曹操はからから笑った。
遠くから聞こえる呼び声を紛らわすかのように。