ねむる小花
さわやかな風に吹かれながら草の間に臥す男がひとり。なびく髪はそのままに、どこを
見るというわけでもなく視線を漂わせている。こういう日は愛馬と共にあても無く駆けて
いくのが彼の日常なのだが、今日はどうもそういう気にならない。
ひときわ大きな風が駆け抜けると、舞い上がる草花の向こうに彼は小さな影を見た。
(あれは…)
危なっかしい足取りで若草色の斜面を歩く小さな影。それは荀ケが見つけてきた、小柄
でめったに声を発さない少女 であった。
張遼は彼女が苦手である。何故なのかは良く分からない。しかし、彼女がまだ子供であ
るからだろうと、彼はなんとなく思っていた。生まれてこの方、子供の世話などしたこと
の無い彼にとって(姿かたちはもう大きいとしても)何も知らない赤子のようなは非
常に扱いにくい存在だった。
そして、もうひとつの理由は大きな黒い双眸であった。くりくりとしたその瞳は穢れを
知らず、何もかも見透かされてしまいそうな輝きを放っている。その瞳が恐ろしい。彼の
内にある、ありとあらゆるものを見られているような気がするからである。その瞳は彼に
問いかける。お前のやってきた事は正しかったのか、間違っていたのか、と。
己で考え、判断し、遂行してきたことに正誤などある筈がない。間違っていても、やら
ねばならない時はある。その逆もまた然り。
こんな小さな存在に心が揺れるようなやわな精神では無かったのだが、と彼は自嘲する。
ぼんやりとしていた焦点を合わせると、そこには彼の恐れるものがあった。
「…!」
「…」
は仰向けになって寝転がっている張遼の胸の上に乗っていた。驚いた彼の顔を映す
黒い瞳には翳りはなく、彼の顔を焼き付けるが如くただひたすらに見つめている。
軽装備であったので鎧の無い部分から彼女のやわらかさと温かさが直に感じられる。こ
の異様な状況をどう打破してよいか分からず、張遼は喉の渇きを感じた。
張遼が四苦八苦している間、はそんなことはお構いなしに彼の胸の上で丸くなる。
体を横にして鎧からはみ出た着物の端を小さく掴むと、穏やかな呼吸を始めた。
「?」
動かなくなった温かいものに異変を感じ、張遼は頭を持ち上げてそれを見た。そこには
丸くなって寝息を立てる小さな存在。いきなり乗っかって来たかと思えば、もう自分を床
にしてまどろむ少女に彼は目を白黒させるほか無かった。
(何なんだ、一体)
黒い瞳が閉じられているので、張遼は頭をそのままにしながら瞳同様黒い髪を梳いた。
やって来た当初はきれいに結い上げていたこの黒髪も、彼女の毎日の行動が分かると後ろ
でまとめて結わえるようになった。朝きれいに結わえても、帰ってきたときには散散なこ
とになっているのだ。目も当てられぬ格好のの髪をすっきり後ろで結うように言った
のは、どうやら荀攸らしい。
(文若どのは気にも留めぬであろうが)
などと失礼なことを思いつつ、張遼は猫のように丸くなりいよいよ熟睡を始めた少女を
困ったように見つめる。一応自分は彼女が苦手ということで通っているのだが、この様な
状況を誰かに見られて有ること無いことあまねく触れ回られては困る。
そう、困るのだ。
彼女を娘のように溺愛している荀ケ、荀攸はもちろん、教師役を買って出た程c、将来
を見越して下心見え見えな郭嘉…いや、ここだけならまだ良い。恐ろしいのは動くジャン
グルジムにして彼と決して仲がいいとはいえない楽進や怒らなくても怖い隻眼の鬼将軍、
千里先からも射殺されてしまいそうな弓術の天才等等…言い出せばきりが無い。尤も、最
強はにこやかな笑みをうかべつつ、恐ろしいことをさらりとのたまう主であるが。
兎に角、このままではいくら命があっても足りない。かといって、この少女を此処に放
っておくことも出来ない。とてつもないジレンマに苛まれながら張遼は彼女を起こさない
ようにすっくと立ち上がる。こちらの気苦労など何も知らず、腕の中で無防備に眠る少女
を見ながら。
(どうかしてる…)
なびく髪飾りが、やさしい旋律を奏でていた。
「おや、。こんな所で寝ていてはいけないよ」
初夏の到来を告げる緑が揺れる木陰には居た。やさしい日の光を受ける彼女を起こ
したのは、日の光と同じくやわらかい面持ちで彼女に微笑みかける荀攸である。は黒
い双眸を瞬かせながら、伸びをした。
「そろそろお茶にしようと思うんだけどね…いかがかな?」
こくこくと頷くに荀攸はにっこり笑って手を差し出す。その手をとって立ち上がろ
うとした彼女はあることに気付いて腕を下ろした。
「?」
「ん?…その花はが摘んだのかい」
はふるふると首を左右に振る。しかし、思うところがあったのかほんの少し笑みを
浮かべながら花に触れた。
「にしても、ずいぶん乱暴な摘み方だねえ」
長さの不揃いな花々は、そんな事を気にしてもいないといった様にの手の中に大人
しく収まっていた。
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寸感:ロマンチック張遼…でも、小さじ一杯分も甘くないなぁ。