君が離れてしまわぬよう
つまらない。
冴え冴えと照る月のもと梅を肴に一献、と彼女を誘ったのは自分である。手には良い酒、隣に好いた女、そして鼻孔に届く微かに甘い梅の香。これ以上何を望むのか、贅沢であろうと頭の中では分かっているが、女の口から発せられる憎い男の名を聞いてはそうもいられなかった。
とは夏候惇に従がっていた際に出会った女将である。耳のあたりで短く切りそろえられた黒髪が印象的な、小柄な女だった。融通が利かない頑固者のきらいがあるが、性格は実直で、妹のように可愛がっていた。
それが変わったのはいつの頃だったろうか。忠義や友誼をまっすぐに映していた瞳に、突如ゆらりと立ちのぼった情を李典は見逃さなかった。気づかねばこうして悩むこともなかった。しかし、妙な勘の良さは、もはやどうしようもない程に彼女の変化を掴んでいた。
そして、ただの男であれば、邪魔することも助けることも容易だったろう。しかしが慕っているのは、最も気に入らないあの男、
「きのう、文遠どのが来られて・・・」
張文遠その人であった。
彼が曹操の軍門に下った当初は、も張遼のことは苦手だと話していた。彼は多くを語らない。常に冷静で寡黙な姿は、人を寄せ付けるようなものではなかった。しかし、李典の知らぬ間にと張遼は手合せのみならず、遠駆けまでする仲となっていた。噂を耳にし、二人の姿を目にしたとき、どろりとした怒りと妬みが生まれたことを李典は認めざるを得なかった。
―なぜ俺じゃない
ふつふつとわき出るのは張遼への妬みだけではない。目の前で嬉しそうに口元を緩めて憎い男の名を発する彼女に、歪んだ情が湧きあがる。
杯を支える白い手が揺れて、酒が腕へと伝う。ほんのりと色づいた頬をした彼女が、少しだけ慌てた様子で取り繕うように笑う。無防備なその姿を奴にもさらしているのかと思うと、無性に腹が立った。
「」
「何ですか」
立ち上がった李典を訝しむわけでもなく、はとろんとした瞳で彼を見た。李典は彼女を腕を掴んで引き寄せ、力任せに抱いた。掴んだ手から酒の甘い香りが立ちのぼった。誘われるように掌に口づけて、そのまま腕へと舌を滑らせる。驚き、怯えているようにも見える彼女の表情が、李典をいっそう掻き立てた。言葉を忘れた唇へ喰らいついて、すぐにでも奪ってしまいたい欲望がせり上がってくる。
あの男は、こんな顔も知っているのだろうか。
―おれだけに違いない
彼女はあの男と共にいる時だけ、とろけるような笑顔を差し出すのだから、知ろうはずもない。
行き場を失くした唇がさまよい、彼女の額へ落ち着く。
「曼成どの」
の困った声が聞こえる。自分がどうしよもうなく彼女を好いていることを気取られたくなくて、李典は彼女の首筋に小さな痛みを与えた。
「おれから離れていかないでくれ」
彼女の首筋に顔を埋め、李典は絞り出すような声でそう言った。