自惚れ
張遼は頭ひとつ分下にある女の黒髪を見つめながら、彼女の返事を待っていた。
女は、彼を降した一因になった夏候惇の従妹・の副将で、名をと言った。やや小柄であるが、健康的な美しさに満ち満ちている彼女を張遼は一目見た時から気に入っていた。
あどけなさの残る小さな顔、ほどよく引き締まった体躯、まっすぐに切りそろえられた短い黒髪、良く動く小さな瞳――
(好みだ)
それだけであった。
「殿」
「何用ですか」
「用が無ければ話しかけてはならぬか」
「私は暇ではないのです」
「そうか。では用を作ろう。いま、よいか」
「駄目です」
にべもなく返されても、張遼は顔色一つ変えずに彼女の行く道を塞いでいる。嫌なら自分を避けてゆけば良いものの、相手を納得させた上で動きたいのだろうか、はじっと睨みつけるようにこちらを見ていた。
「そのように見つめられると期待してしまうな」
「な、戯言を」
「私は真面目に言っているのだが」
ずいと顔を近づけると、彼女の体がのけ反る。足の一本が後ろに退けると、手にしていた竹簡がずり落ちそうになった。
「殿」
「何です」
少し震えながらも視線を返してくるに、張遼の心は静かに燃えていた。愛しさというのはこうして頭の中で、心の内で大きく膨らんでゆくものだったろうか。ひとたび言葉を交わせば胸の高鳴りは大きくなり、視線を絡ませれば体の奥が熱くなる。
嗚呼、あと触れ合えたならば・・・
張遼の手が彼女の頬にすっと伸びて、優しくその輪郭をたどる。
「張遼殿!」
「好きなのだ」
ぱしりと滑らせた手を打ち払われ、あたふたと慌てるに畳み掛けるように言葉を掛ければ、彼女は面白いくらい赤くなって眉を吊り上げた。
「訳の分からないことを仰らないでください!」
「難しいことは言っていないと思うのだが」
「そういうことではありません!」
「もう一度言った方が良いだろうか」
「け、結構です」
「好きだ」
張遼は彼女が言葉の意味を解していないのかと小首を傾げた。
「貴女を好いておるのだ。話がしたい」
真面目な顔で迫られて、は逃げ場を無くした。じりじりと攻防を続けている内に、なぜだか壁際に追い詰められていた。
「殿」
切りそろえられた短い黒髪に触れる。間近で見つめることができる時間は至福としか言いようがない。張遼はやはり真面目な顔で、しかしうっとりとした心地でその手を再度頬へ滑らせようとした。
「あ」
「どうした」
「と張遼だ」
「なに」
夏候惇は従妹の指さす先を見て、ふうんと意味ありげに顎髭を撫でた。
「何してるんだろ」
「じゃれてるんだろう」
「でも」
「お、どんどん行くな」
「壁まで・・・」
「ふむ・・・」
「・・・」
「あ」
快音が響き、が走り出した。張遼は左頬に手を当てながら、振り返って不思議そうな表情を浮かべている。
「しくじったな」
夏候惇が愉快そうに笑うと、は首を傾げながらつぶやいた。
「と張遼が話すのは初めてだと思うんだけど」