一.事件―天の子ども―  

 は曹昴の子であり、曹操から見れば孫に当たる。父の死去後、忘れ形見である を引き取った(というより半ば奪ったような形であるが)曹操は、彼女に並々ならぬ愛情 を注ぎ、目に入れても可愛いといった様子であった。甘やかされて育ったものの、義母と なった卞氏の躾により、とんでもないわがまま姫にならなかった事は、奇跡といっても過 言ではないだろう。しかし、度々後宮を抜け出して祖父の所へ遊びに行くという悪戯だけ は、彼女が何度言っても直ることはなかった。
 の父は、優しいところを除けば曹操に瓜二つとまで言われていた。幼いは祖父 に父の面影を見ているに違いなかった。父の死が何たるかをまだ知らぬこの姫君に、彼女 が慕うこの祖父こそが父の死の引き金になっていたという事実はまだ知らされていない。

「おじいさま」
、また抜け出してきたのか…いや、それはいい。だがな、おれはまだじじいと言う 歳ではないんだが」
 いつの間にか現れた愛孫を膝の上に乗せ、曹操は可愛らしい頬をつつく。はしばら くじっと座っていたが、やがて飽きて、膝からひょいと降りるととてとて歩き出す。
「なんだ、もうお出かけか」
「ん。おじいさま、さようなら」
「はい、さようなら」
 妙なところで礼を示す孫に彼は小さく笑いながら、見た目よりはしっかりしている彼女 の小さな後姿が消えると、彼は傍にあった書簡に手を伸ばした。
 が曹操の周りをうろついている事は、ほとんどの者が知っていた。すくなくとも夏 侯一族は彼女の身内であるし、彼女の父を可愛がっていた夏侯惇などは、曹操に負けず劣 らずの溺愛ぶりを示している。誰もがこの少女を大切にし、もまた彼らに甘えた。
「おや、さま。お出かけですかな」
「あ、じゅんゆう」
 廊下を小走りするを引き止めたのは彼女の”字の先生”と呼ばれている荀ケの甥の 荀攸である。戦でなくとも、どこか殺伐とした空気を漂わせるこの館に無邪気な空気を振 りまくの存在は、ここを訪れる全ての人間の心を和ませる。
「あまり遠くへ行かれてはなりませんよ」
「うん」
 素直に返事を返すに微笑みながら、言葉少なに荀攸は行ってしまった。その背中を 追おうとするだったが、祖父の所へ行くことがわかると、回れ右をして歩き出した。



 何も無い廊下を歩いてみても、朝からこのような所へ足を運ぶ者は殆どおらず、は 退屈そうに頬を膨らませながら日光の差し込む露台へ出た。
 そこには幾羽かの雀が戯れており、は見つからないようにそおっと近づく。しかし 彼女が二三歩踏み出した途端に、危険を察した雀たちは欄干にひょいと飛び乗ると、直ぐ に飛び立ってしまった。獲物に逃げられたはぷうっと頬を膨らませて欄干に寄りかか る。しばらく不機嫌そうに地団駄を踏んだりしていたが、欄干の隙間から見える景色に興 味を示した。普段、あまり高いところに行くことのないにとって、自分の住んでいる ところを眺望できることなどまず無いのであった。
 見渡す限り、薄い鼠色の石畳が続く。これといって彼女の興味をそそるものは無かった。 は下方を見るのに飽きると、上方にある広大な空を眺めた。それは下方とは違って、 遮る物も境界線もない。時折流れてくる白い雲に目をやりながら、は空を見続ける。
「あ」
 青と白しかない世界に、突然黄色いものが割り込んできた。変則的な動きをしながら浮 遊するそれは、光に反射してきらきらと輝く粉を纏い、彼女の鼻元を掠めた。黄色いそれ を掴もうとするだが、ひらりひらりとかわされて捕まえることが出来ない。始めは露 台の真ん中あたりをふらふらと飛んでいたそれは、やがてもとの位置に戻るようにして欄 干にとまった。羽一つ動かさないそれを掴もうとは先ほどの雀にそうしたように、に じり寄る。そして欄干に上半身を預けると、浮いている両足で欄干を蹴り、勢いをつけて 獲物に飛びついた。



「ん?…蝶か」
 目の前を掠めた黄色いものが、隣の男の眼前を掠めたかと思うと、消えた。男の手には 小さい命が震えていた。
「もう春だなあ」
 恐ろしげな容貌に似合わない間延びした声を上げた隻眼の男は、隣の小柄な男の手から 目を離すと、そう言って欠伸を一つ噛み殺す。ひときわ小柄な男は軽く頷くと、その手の 内にあったものを解放する。その手には、微かであるが黄色いものが残っている。
 猛将・夏侯惇はしばらく戦から離れている体を鈍らせないために、一人で鍛錬を行って いた隣の男・楽進に手合わせを頼んだ。両者はそれなりに充実した時を過ごしたのではあ るが、彼らが手合わせを行っていた時間というものは、一日の中で言えばほんの少しにす ぎず     つまり、彼らは暇を持て余しているのである。
 ぶらぶらと場内を歩き回る二将軍に、兵卒は何かあったのかとびびり上がっていたが、 鬼将軍の暇そうな、それでいてなんともいえない怠惰な雰囲気を悟ると、何故かほっとし ていた。そんな腑抜けた体に、つんざくような悲鳴が刺さった。驚いた二人が悲鳴のした ほうに顔を向けると、欄干を鉄棒のように腹の下に抱えている少女が、今にも落ちそうな 具合でぶら下がっている。もしかして、と夏侯惇が目を凝らすのよりも速く、聞きなれた 声が彼の予想を的中させる。
さま!そこを動かないで下さいまし!」
「やっぱり…!」
?」
「おまえはまだ会ったことがなかったか…あれはな、子脩の、曹昴の娘だ」
「?」
 楽進が理解するよりも速くに、夏侯惇は大声を上げる。
!絶対に動くなよ!」
 走り出した隣の男を追って、楽進は欄干に捕まる小さな姫君に目を凝らした。淡い光に 栄える黒髪は、恐怖のためかふるふると震えており、小さな体は時折吹くそよ風にすら脅 えているように見える。
「荀攸、ゆっくり近づけよ!」
「ええ!」
 夏侯惇が物凄い速さで階段を駆け上がっていく。それを見た楽進は、もしもの時の為に 彼女の真下で立っていた。
 完全に震え上がっているは、体がいう事を聞かないのかがっちりと欄干にしがみつ いている。背中を掠める風に、体がぐらぐら揺れるような感触を受ける。この腕を放した ら、落ちる。

「腕を放すな!」
 聞きなれた声と共に、叔父のように慕っている夏侯惇の姿が小さな双眸に映る。すると 安心してしまったのか、力が抜けて腕が離れる。小さな影が、一瞬にして消える。
「ああっ!」
「楽進!落ちたぞ!」
 絶叫して顔を真っ青にする荀攸とは裏腹に、夏侯惇は至極落ち着いた様子で下の男に指 示を出す。そして、ぼすっと音がしたかと思うと、大きな泣き声が響いた。
 夏侯惇が欄干越しに下を見ると、楽進が、すがりついて泣きじゃくるを抱きかかえ たまま、困った表情を浮かべていた。
「ふう、大丈夫だったな…おい、荀攸。大丈夫だったぞ」
 固まっている荀攸の肩を軽く叩くと、夏侯惇は階段を下りた。
「…」
 今度は啜り泣きを始めたに、楽進はその腕を何処にやってよいやら分からなくなっ た。先ほどまでは彼女の体から力が抜けてしまっていて、支えたやらねば倒れてしまいそ うだったのだが、今は彼の首に腕をまわして、へばりついているのである。
「楽進、助かった」
「はい」
、何とも無いか」
 振り返ったは”おじさま”に向かって頷くと、目の前にあった楽進の顔を見てきょ とんとした。至近距離で見られた楽進は、類まれな美しさを持つこの少女の黒い瞳に、吸 い寄せられそうな、眩暈のようなものを感じる。血管が微かに浮き出ているような、透き 通った白い肌と、綺麗に切り揃えられた黒髪は、まるで天人のようである。
「楽進にお礼を言いなさい。お前の命の恩人だぞ」
「はい。がくしん、ありがとうございます」
「いえ…」
 彼女を届けてくると夏侯惇が言ったので、楽進はその場で二人と別れた。小さくなる黒 い頭をしばらく見ていたが、階段を登りきったところで、それがこちらを向いて小さな手 を振ったので、楽進はおもわずはにかみながら手を振り返した。