二.再会―ほころぶ糸―
例の事件があってから、の姿をすっかり見なくなった。あの事故を耳にした義母が
彼女を後宮から出さなくなったというのは当たり前のことである。はしっかりお灸を
据えられて、すっかり大人しくなってしまったようだ。
しかし、の中には自分を救ってくれたあの男の顔が残っていた。名が楽進で、字は
文謙。彼からその言葉を聞いた時より、忘れないように何度も繰り返した言葉である。彼
女の中で、命の恩人であるという事とは別の特別な感情が芽生えているらしかった。それ
は、強い憧憬と淡い恋心である。幼くして父を失い、その姿かたちさえはっきりと覚えて
いないにとっての父親代わりは沢山いたが、それとは別の異性となると、楽進が始め
てであった。あの当時はそんなに強い意識は無かったが、彼女の成長と共に心の中の楽進
は焦がれる相手となり、想像が甘い妄想と化すこともしばしばであった。
そんな心のうちを誰かに打ち明けることも無く、は確実に少女から大人へと変わり
行く、花も恥らう年頃の娘に成長していた。その美しさは、現在彼女の周りに年頃の娘が
居ないことも手伝って、ひときわ輝いていた。それほどの美少女なれば、求婚の嵐となる
筈であるが、曹昴の娘である彼女の存在が薄いという事もあって、今のところその手の沙
汰は全く無かった。
「はあ…」
「溜息なんかついて、どうしたの?」
「お祖母さま」
うららかな春の陽気に包まれた庭園は見事な花々を開かせていたが、彼女が溜息をつく
度に、その色をぼかしているようにも見える。
「いえ…」
そう言って、ぼんやりと遠くを見つめるの瞳には何かが宿っているように卞氏は思
う。年頃の娘が物思いに耽っていて、何も無いはずがないのだ。このような閉鎖的な空間
で女ばかりの生活となれば、まだ良人のいないのような娘が毎日あらぬ世界に想像を
膨らませてたとしてもおかしくは無い。それに、彼女には思い人となりうる人物がいくら
でも居るのである。その中でも最有力候補に挙がるのは、命の恩人・楽進であろう。あの
事故の日、さんざん怒られて、外出を完全に禁じられた時でさえ、楽進の容貌について事
細かに説明してきたのである。それからと言うもの、曹操が後宮に姿を見せると真っ先に
飛んで行き、彼のことについて、まるで尋問のように祖父を問い詰めた事などは、噂にな
ったぐらいであった。
「ふふ、好きな人でも出来たのかしら」
「ち、違いますっ」
あまりにも分かりやすい反応に、卞氏は声を上げて笑いそうになる。大方彼女の予想は
当たっているだろう。
「には命の恩人がいらっしゃるのよね」
「お、お祖母様!」
「いいじゃない。好きなんでしょう」
「が、楽進には感謝しています」
強がらなくってもいいのに、と卞氏は言ったが、これ以上娘を苛めて、泣かれでもした
ら困る。
「私は、おじいさまの子じゃないもん…」
呟くの言葉に、卞氏は複雑な顔をした。父親が死んで、彼女の立場はほぼ無くなっ
たと言って良い。彼女と結婚することで、相手が特別な立場になることはまず無いであろ
う。は、自分と楽進が結婚したとしても、それが彼にとって特別有利になる訳ではな
いという事を知っていた。楽進が彼女との結婚を厭わないのであれば、結婚自体は不可能
な事ではない。しかし、の中では、曹操の娘でもない自分と思い人が結婚してもしょ
うがないと言う気持ちは勿論のこと、彼が自分のような子どもを好きになってくれる自信
が全く無かった。
「…」
「ごめんなさい、お祖母様…しばらく、一人にして…」
「ええ」
大きな溜息を一つつくと、の瞳ははまた、ぼんやりと遠くを見つめていた。
部屋を出た卞氏は、歩きながら孫のことを考えていた。彼女が好いている男と結婚する
には、どのようにすれば良いのか、と。はっきり言って、女から結婚を要求するという事
は滅多にあるケースではない。それに、その楽進が彼女のことを好きかどうかが最大の要
因であり、それを確かめないことにはどうにも出来ない問題であった。
(孟徳さまにそれとなく聞いてみるしかないかしら…)
彼女が恋焦がれている楽進というのがどのような男なのか、そして、その男が果たして
彼女のことを覚えているのか。卞氏は出来ることなら叶えてやりたい孫の願いを胸に、良
人が後宮に現れるときを待つしかなかった。
「母上」
「?子桓、どうしました」
突然の息子の訪問に、卞氏は少し驚いているようだったが、彼がのところへ行き、
その報告にやってきたのだと言うと、椅子を勧めた。
「は恋煩いでもしているんですか」
「ええ…」
「へえ、それは誰なんです」
「楽進という方よ」
「楽進…?ああ、そう言えば昔、楽進に助けられたことがあるらしいですね」
「そうなのよ」
母の気のない返事に、曹丕は探るような目つきで言う。
「あいつも父上に言えば良いのに」
「あの子は子脩さんの子だということを気にしているのよ」
「そんなこと」曹丕はどこか馬鹿にしたような物言いで続ける。「今のところあいつより
美しい女を私は妻しか知りませんがね」
「容貌の話ではないわ」
「身分ですか?でも兄上の子なら何も問題ないでしょう。有利になる事はあっても、不利
になることは無い」
「そうね…」
「は年頃になってから、昔のようにとんと噂も立たなくなりましたから…男が寄り付
かないのも当然ですが、好きな男がいるのなら、迷う必要はないでしょう?」
「だけどね、子桓」
「はい」
「その、楽進どのはどういう方なの?あの子は好き勝手に想像を膨らませているけど、恋
は盲目。でしょう?」
「それはそうです。しかし、要するに一度会って話でもすればいいのでしょう?」
「そうは言うけど」
「母上。楽進とを別々に呼び寄せて、偶然出会ったようにすれば良い。その程度のこ
となら私がします」
任せてください、と胸を張る息子の策に卞氏はあまり乗り気ではなかったが、このまま
娘を、煩悶の渦に巻き込まれるがままにしておくことはできなかった。
「…父上にはばれないようになさい」
「もちろん」
手はずを整えてまいりますと言いながら下がる息子の背中を見て、卞氏はさながら
の溜息をついたのであった。
「、外に出られなくて退屈だろう。どうだ、散歩にでも行くか?」
「いいの?」
「ああ。とっておきの場所があるぞ」
「行きます!」
外出するのは何年ぶりだろう。外気を吸うのは気持ちの良いことだ。
「外で待ってる」
「はい、すぐに!」
用意することなど無いのだが、は浮かれて普段つけている耳飾や首飾り、さらには
服までも違うものに変えた。誰に会うというわけではないが、彼女の心はそれほどまでに
高揚していた。
「お待たせしました」
「ん?随分めかしこんでるじゃないか」
「久しぶりのお出かけだもん」
話すうちに昔のような子どもっぽい喋り方をするを見て、曹丕はまだ中身は子ども
だな、と思う。見た目の美しさがあまりにも大人びたものなので、それが、かえって彼女
の可愛らしさを強めているような感じを受ける。この妹のように可愛がっている娘を、楽
進が見たらどのような反応を示すだろうか。彼の興味はどちらかと言うとそちらに向けら
れていた。
「兄さま、どこへ行くの」
「こっちに池がある。綺麗な鯉もいるぞ」
「そうなんだ…」
よほど楽しいのか、満面の笑みを浮かべながらは兄の腕に抱きついた。
「こら、おまえはもう軽くないんだから」
にやにやしながら姪の反応を見ると、は小さな唇から赤い舌をちょとだけ出して言
い放った。
「叔父さまのばか!」
件の池に着いた二人は、亭(ちん)で話し込んだ。久しぶりに叔父と話したは、多少
興奮気味で、話の種が尽きない様であった。彼女のマシンガントークが止んだ時、曹丕は
茶を持ってくるからしばし待てと言って、消えてしまった。ぱっと消えてしまったものだ
から、彼女は何も言えなかった。
亭から出て、池の鯉を眺める。煌めく赤や金の鱗にみとれていると、誰かに呼ばれたよ
うな気がして顔を上げる。すると、池の向こう側に何者かがいた。
「!」
は思わず声を上げそうになって口に蓋をする。向こうからやってきたのはどちらか
と言うと背の低い、小柄な男であった。逆光と木々の陰で顔は良く見えないが、は何
かを感じた。
男は何かを探しているのか、きょろきょろ辺りを見回していたが、さっき彼女が居た亭
の方へ顔を遣ると、それに向かってずんずん歩き出した。は思わず身をかがめる。男
の顔が見えそうなのだが、見ようとすると相手に気づかれそうだ。男が亭に入ったような
気配を察すると、は顔を上げ
た。
「楽進…?」
あまりのことに、声が出てしまっただったが、彼女の思考回路を修復することは出
来そうにも無かった。長年恋焦がれている相手が、目の前に居るのである。動悸も、顔の
熱さも抑えることができない。彼女が上半身を持ち上げた時、がさりと葉の擦れる音がし
て、思い人はこちらを見た。
「…?」
は言葉が出なかった。十年も前の事を彼が覚えている訳がない。おそらく自分だと
いっても、わかってもらえるかどうか怪しい。は呆然とそこに座りつくしていた。
返事をしない草むらの人影に楽進は目を凝らす。見れば、卑しからぬ格好をした女であ
る。なぜこのような所に、高貴な身分の女性が一人で居るのかわからないが、無闇に近づ
くのはまずそうだ。
しばらく沈黙の対峙を続けていた二人だったが、曹丕が帰ってきたことを機に、緊張の
糸が切れた。
「ああ、楽進」
「若君、御用とは」
「うん、それなんだが…お前は昔童女を助けたことがあったな…覚えているか?」
「?…はい」
「あれはといって、亡き兄上の娘でな。今ではすっかり大きくなってしまったのだが」
「…!」
楽進の反応を満足げに見ていた曹丕は、しれっと言う。
「おい、!こっちに来なさい」
「は、はい」
声のした方を見ると、先ほどの女性 と言うよりは少女が 草むらからすっと立ち
上がった。その姿を見て、楽進は口が少し開くのを感じる。十年も経ったのだから、すっ
かり変わってしまったように見えるが、艶やかな黒髪も、吸い込まれそうな双眸もあの時
のままである。美しさはそのままに、どこか儚げな印象と、大人の階段を登りつつある少
女の何ともいえない魅力が加わっていて、つい見とれてしまう。
「綺麗になったろう」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら囁く曹丕の声に、楽進は夢から覚めるような心地がした。
そして、ゆっくりとやって来たに、積もる話があるだろうから邪魔者は退散するよと
言うと、待ってと声を上げる妹に頃合を見て迎えに来るからと言い残して、そそくさと帰
ってしまった。
「に、叔父さま!」
叔父の背中を追っていた眼がこちらを向くと、楽進はぺこりとお辞儀をして名乗った。
「あ、えっと、楽進のことはちゃんと覚えてるから…その、す、座りましょう」
無理やり彼を座らせると、自身も座る。自分だけがこんなにも緊張しているのかと思う
と、とてつもなく恥ずかしい。彼は兄に言われたから此処に来たに違いないのに。
「わ、私のこと…覚えてる…?」
「はい」
「よかった…」
ほっとするに、楽進は少し笑みを浮かべる。見た目は美しく成長していても、中身
は年齢どおりの可愛らしい少女であったからだ。
「わ、私ね、あの時からあなたに会いたくって、仕方が無かったの」
頭で考えるよりも先に、口をついて言葉がでてくる。体は火のように熱く、どうにか為
りそうだ。思わず自分の気持ちを吐露してしまいそうになるが、それだけは避けねばなら
ない。自分は曹操の孫である。自分から求婚したとあっては、彼が断れるはずも無い。
「あの時は本当に…ありがとうございました」
そう言うと、恥ずかしくって顔も上げていられないのか、こうべを垂れてしまう。
「お顔を上げてください。自分は、当然のことをしたまでです」
「ええ…」
顔を上げたは、その瞳に光るものを宿していた。そして、彼の顔を見ると、小さな
雫がそこから溢れ出した。顔を小さな手で押さえていただったか、ゆっくりと顔を上
げると、腕を彼の方へ差し出して、近う、近うと呟くようなか細い声で言った。命に従い
彼女の傍に楽進が来ると、その両袖にすがり付いて歓喜の涙を流した。
為されるがままの楽進は、彼女の小さい体を見て、あの日のようだと思い出していた。
一瞬、空を舞った姫君が、自分の腕の中で大泣きしたあの時の事を。
泣いているがしきりに自分の名を呼ぶ声を聞きながら、彼はこの姫君に対する愛お
しさを感ぜずにはいられなかった。