三.厳つ霊(いかつち)
風がざわめき、草花を揺らす中、一人の少女の声が響く。ともすれば一人で話している
ようにも聞こえる声だが、彼女の前には微笑みながら相槌を打つひとりの男がいた。
「お祖父さまって、酷いのよ。これまで好き放題させてたくせに、今になってお琴や舞を
習えというの」
はぷうっと膨れる。それをにこやかに見ていた楽進は、膨れた彼女の顔を覗きこむ
ようにしながら「お嫌いなのですか」と言った。
「嫌い?…う〜ん好きか嫌いかはよく分かんない」
「では、なぜ?」
「う〜…」
の場合、特別琴や舞を習うこと自体に嫌悪感がある訳ではない。強要されるのが嫌
なのである。そして、もう一つの理由が…
「私が琴を弾いていたら、おかしくない?」
「全く」
間髪を入れずに楽進が答えたものだから、は少しびっくりしたように彼の方を見る。
「ほんと?」
「はい」
「お世辞じゃないよね」
「はい」
何ゆえ貴女に世辞を言わなくてはならないのですかと楽進は思う。これまでの事からい
えば、女らしい、というか、高貴な身分の女子が取るべき態度を常時取っているとは思わ
ないが、ある意味それが最も彼女らしい所である。また、もし彼女が琴なり舞なりをやっ
たとしても、お転婆もすこし丸くなったのかと言われるぐらいで、それは彼女を一層可愛
らしく、そして美しく見せるものではないだろうか。
「じゃあ、練習したら見てくれる?」
「私が?」
「そうよ!文謙が見てくれるんなら、やる」
「生憎そのような嗜みはありませんが…」
「上手い下手じゃなくて、文謙に見てもらいたいの!」
あまりにストレートな言い草に、楽進は目をぱちくりさせる。
「ねえ、いい?だめ?」
くりくりとした瞳がこちらを覗き込んできて、顔が綻んだ。なんと可愛らしい姫君だろ
うか!このように頼まれて断ることが出来る人間が居たのならば、それは鬼畜に違いない
とさえ思う。彼女のこういう可愛らしさを感じる度に、彼は自分がを深く愛し、守っ
て差し上げなければと改めて思うのであった。
「わかりました」
はにっこり笑って何か言葉を発しようとしたが、止めた。目の端に、どんよりした
灰色の雲が映ったからだ。心配そうに空を見るに楽進はもうお帰りになりますか、と
言おうとした。しかし、それは彼女の声で遮られた。
「雨、降るのかな」
「どうでしょう」
「でもね、降るなら思い切りがいいな」
先ほどまでの心配顔が嘘の様に、の顔は楽しそうであった。
「きつい雨が降れば、帰らなくてもいいもの」
止むまで一緒に居られるんだもの、と言うの顔は少しばかり赤くなっていて、楽進
は何処に視線をやってよいか分からなくなる。彼女の裏のない愛情表現に対抗できるもの
など何一つ無いのだ。
しばらく二人して恥ずかしがっている内に、黒い雲はどんどん空を侵食して行き、遂に
は辺りを暗くしてしまった。そのうち雨が降り出し、二人の居る亭(ちん)にも冷気が漂
ってくる。
雨が降ってきて、困ったような嬉しそうな、なんともいえぬ表情をしていただった
が、向こうの方で小さく雷が光ると、途端に縮み上がって情けない声を出した。
「?」
「い、今雷が…鳴っ…ひゃあっ!」
だんだん音と光が近づいてくると、彼女の恐怖心はどんどん煽られる。
「さま?」
楽進はその脅えように一抹の不安を感じたが、それをどうこうする前にやつが来てしま
った。
暗雲立ち込める空に幾筋もの光の槍が突き刺さり、消えたかと思うと、大地を轟かす叫
び声が鳴り響く。
「〜〜っ!」
声にならない声を上げ、は思い切り楽進の胸にしがみ付いた。思わず飛び込んでき
た柔らかい体に彼は成す術もなく、余った両手の遣りどころに困る。
「ぅ、ぅえ」
しがみ付いているはぶるぶると雛鳥の様に震え、一向に顔を上げる気配がない。雷
は少し遠くの方へ行ったようだが、まだ音も光も感じられる範囲だ。兎に角、この脅える
少女の不安を少しでも和らげてやらねばならない。言葉でどうこできるほど彼は口が達者
では無かったが、言わずには居られなかった。
両腕での背中をそっと抱くと、片方の手でぽんぽんと優しく叩いた。そして、そう
しながら何度も「大丈夫です」「もう雷は行きました」と言った。
だんだん小雨になり、雷の気配が感じられなくなるとは何度目かの「大丈夫です」
で、おそるおそる顔を上げた。その頬は、少し湿っていた。
「もう、いません」
「う、うん」
醜態を晒してしまったという恥ずかしさと、泣き顔を見られた恥ずかしさから、の
顔は先ほどにも増して赤くなっていたが、楽進はただ微笑むばかりである。このような泣
き顔ですら、可愛いと思ってしまう自分に呆れながらも。
「もう十六になるけどね、雷…怖いの…わ、笑うでしょ?」
「いいえ」
「うそっ。顔が笑ってる」
これは雷を恐れていることを笑っているのではなく、彼女の可愛らしさに顔が緩んでし
まうだけなのだが…。
「ふ、ふん!どうせ子どもですっ」
彼の腕の中から抜け出すと、そっぽを向いて外に出ようとする。亭の外へ足を踏み出そ
うとした時、楽進が声を上げた。
「さま、いけません」
「何が?」
くるりと振り返った彼女の前に立つと、楽進はすばやくを抱き上げた。
「!」
「失礼します」
状況の読み込めないはただおたおたするばかりだが、楽進の足元を見て「あ」と声
を発した。先ほどの通り雨のせいで土壌はえぐれ、大きな水溜りをいくつも作っていた。
は近くにある楽進と目を合わせようとしたが、彼は前だけを見ているようだった。
彼女はじきに諦め、彼の顔に無数にある傷跡を数え始めた。
「文謙の顔には傷がいっぱいね」
「はい」
「いくつあるのかな…」
「…」
「今度会った時は、傷の数をかぞえようね」
「え…?」