春意


 ひときわ大きな風が吹き、部屋の中に桃色の花びらが一斉に入り込んできた。
 司馬懿は硯に浮かぶ花びらを見て立ち上がり、廊下に出て欄干にもたれ掛かった。
(見事なものよ)
 風が吹くたびに舞い上がる桃の花は、見下ろしてみれば桃色の小さな海のようにも見え
る。渦を作り、様々なものを巻き込みながらいつしか姿を消してゆく。
 しばらくその様子をぼうっと見つめていると、かたんと扉の開く音がして明るい声が飛
び込んできた。

「仲達さま、お仕事は落ち着きましたか?」
「そう見えるか」
 広い部屋を突っ切って彼の隣にまで来たは、机の上に広がっていた筆やら竹管には
目もくれていないらしい。司馬懿は隣でにこにこ嬉しそうに笑う妻を気味悪がりながら、
とりあえず「どうかしたのか」と聞いてみた。聞かなければ後が怖いのだ。
「お庭の桃が綺麗に咲いております」
 相変わらず微笑みながらその後を言わない妻に、司馬懿は一瞬怪訝な顔をしてそっぽを
向いた。しかしは背けられた顔に向かって「見に行きましょう」とひとこと言った。
「ここからでも見える」
「近くで見たほうが綺麗でございましょう」
「…机の上を見ろ」
 が頸だけで机を見ると、司馬懿はわかっただろうと言いたげな顔でもって、ため息
をついた。特に早急に仕上げなければならないものでは無かったが、できれば仕事をため
ておきたくない。
「筆と硯が乗っております」
「…」
「あ、硯に花びらが入っておりますわ。仲達さま、やはり桃が呼んでいるのですよ」
 何としても自分を外に連れ出したいらしい妻の言い分を聞いていると、司馬懿は疲れた
ようにうなだれながら「桃は何も呼ばん」と至極真っ当な答えを返した。

「…師も昭も寂しがっていますわ」
 ぎくっと体を強張らせて、司馬懿はに背を向けたままの状態で固まった。遊び盛り
の息子二人は最近自分が構ってくれないとぐずる時がある、とから聞いていたのだ。
 別に息子が嫌いなわけではない。むしろ可愛いと思っている。話してやりたい事、教え
てやりたいことは山のようにあるし、純粋に遊んでやりたいという当然の親心もある。し
かし、如何せん仕事が片付かないのだからどうしようもない。子どもと遊んでいて仕事が
遅れたなどという事は有ってはならないのだから。
「いや、そうは言ってもだな」
 途端にしゅんとしてしまった良人に畳み掛けるように、は沈んだ様子で言葉を続け
た。
「お忙しいことは重々承知しております。しかし、かれこれ三月ほどろくにお話もして下
さらないのはあんまりではございませんか」
 ぐっと詰った良人に、は顔を俯けながら「仲達さまは師や昭のことが…わたくしの
事をお嫌いになられたのですか」とくぐもった声で言った。
「何を言うか」
 司馬懿は吃驚した様子で妻を見た。頭一つ分は違う彼女のつむじを見つめながら、その
言葉にどう返してよいか分らなかった。
「私がいつお前たちの事を嫌いだと言った」
 は顔を少しだけ上げ、上目遣いに良人を見た。
「では、二人に会ってくださいますか」
「…よかろう」
 司馬懿はしてやられた、と今更ながら天を仰ぎ、微笑む妻の顔を不貞腐れながら見た。



***



 庭に下りると、桃色の絨毯が当たり一面に敷き詰められていた。下で行儀良く待ってい
た息子二人は、久々に会った父に興奮した様子で話しかけ、触れ、彼の手を引きながら先
へ先へと絨毯を蹴散らしながら歩いた。
「師、昭。そんなに引っ張ると父上が千切れてしまいますよ」
「あ、はい、それで、父上その後に…」
「ははうえ、ははうえもはやく!」
 少し性格に自分らしさが出てきた長男・師は現在七歳。見た目よりずっと大人であるが、
やはり久々の父親はかなり効いたらしい。息をする間も忘れて、なにやら話し続けている。
そして、まだまだ甘えん坊の次男・昭は四歳。父親との記思い出という思い出はあまり無
く、どちらかというと母親への依存が高いが、三月ぶりに見た父親にかなり気がいってい
るようだった。

 困ったような笑みを浮かべている良人を見ながら、はふっと口元を緩めた。いくら
やらねばならない仕事があるからといって、家族をないがしろにするのは嫌だ、と彼女は
思っている。たまには息抜きも必要であるし、自分たちだって嬉しい。事実、今日のこと
で一番喜んでいるのは自分だと思えるぐらいなのだから。
(三月も放っておいて…今日はたっぷりお休みさせてさしあげます)
 は微笑んで仲良く並ぶ背中を見ると、昭の甘ったるい声が聞こえて少し急いで三人
の後を追った。






 木陰で休んでいたは、とてとてとおぼつかない足取りで近づいてきた昭をみて顔を
上げた。
「あら、どうしたの」
「あにうえとちちうえおはなししてる…」
 むくれた表情で母の胸に飛び込んだ昭は、顔を合わせないように腰に手を回してしっか
り絡み付いてきた。はくすくす笑うと、目と鼻の先に居る長男と父親を見てまた微笑
んだ。何を話しているのか分らないが、最近書物にのめりこんでいる師は父に聞きたい事
がごまんとあるのだろう。そのような話に幼い昭が入って行けるはずも無い。
 柔らかい髪を梳きながら、は愛おしそうな視線を息子に与えながら言った。
「じゃあ、昭は母上とお昼寝しましょう」
「おひるね?」
「ぽかぽか暖かくて気持ちがいいわ…母上は眠くなってきました…」
 瞳を閉じて自分のの頭や背中を撫で始めた母を見て、昭は母の両足に跨るように座って
瞳を閉じた。日差しと母の暖かさで、昭が眠りに付くのはすぐだった。



「あっ、昭がいない」
 呼吸以外に黙ることのなかった師が、初めて言葉を切った。司馬懿はきょろきょろと辺
りを見ると、木陰で眠っているらしい二人を見た。
「あそこだ」
 父の指差すほうを見ると、弟と母が抱き合って眠っている様子が見えた。師はほっと息
を吐くと、申し訳なさそうな視線を父に浴びせた。
「どうした?さすがに疲れたか」
 聞いている方も疲れたが、話している方はもっと疲れただろう、と司馬懿は息子の頭を
撫でながら言った。師はくすぐったそうに体をよじりながら、笑った。
「私とお前がこんなに話しているのに、母と昭は昼寝だ」
 どう思う、と司馬懿は口角を吊り上げながら師に問うた。師は困ったように微笑みなが
ら「僕も少しねむいです」とあくびをかみ殺して言った。
「おまえもか」
 司馬懿はにやにやしながら立ち上がると、「実は私も眠い」と言って師の手を引きなが
ら、二人の下へ歩いた。


 と昭に近づくと、二人は熟睡しているらしく少しも気づかなかった。司馬懿は師を
右側に座らせると、自分は左側に座って妻の顔を見た。なんとも幸せそうな顔をしている
ではないか。
(自分から誘っておいて、眠るとはいい度胸だ)
 師が彼女にもたれ掛かって、うつらうつらし始めたのを確認すると、司馬懿は己も頭を
細い彼女の肩に置いて、春の暖かさと彼女の温かさを感じながら瞳を閉じた。






素材:Kigen