雨の香りが濃い。しとしとと涙のように降っていたのもつかの間、土をえぐる様な強さに変わっていた。
 大きな帽子を門の下で脱いだ馬岱は、困ったような笑みを浮かべてため息を吐いた。


 夜光杯


「ご苦労だった」
 窓辺にもたれ掛っていた馬超は、窓の外をぼんやり見つめながら声だけを従弟に向けた。気怠さすら感じさせる馬超の振る舞いは、戦場での華々しい武者ぶりからは想像できない。しかしそれはそれで風情がある、と思わせるような艶を彼は身の内に抱いていた。
「何か見えるの」
 対する馬岱も従兄に引けを取らぬ体躯の持ち主である。大きな目としっかりした目鼻立ちから生まれる人懐こい豊かな表情は、見るものを安心させる妖術めいた魅力があった。
「いや。音がすると思ってな」
 じっと一点を見つめる馬超に馬岱はやれやれと肩をすくめて、それから彼の隣に立った。四角い窓から見えるのは、所々に松明の赤い光がぼんやりとうつる石畳。まっすぐに降りしきる雨の音が耳をつき、馬岱は従兄が何を言わんとしているのかを考えた。
「小さい音だ・・・」
「何も聞こえないけど」
「ああ。今聞こえなくなった」
「若」
 からかってるの、と馬岱が不満そうな顔で抗議しようとする。馬超はそこで初めて顔を上げ、唇の端を少しだけ持ち上げた。普段ならとりとめのない話など滅多にしない従兄である。その彼が悪戯っぽく自分をからかうなど、馬岱は片手で足りるぐらいしか知らない。
 具合でも悪いのではないかと思ったが、帰順したばかりの自分たちには悩みの種は蒔ききれないほどあった。疑われぬように、怪しまれぬように、与えられることを着実に行っていかねばならないのだ。
「窓閉めたら」
「そうだな」
 それきり黙りこくった二人は、ばたばたと慌ただしく報せをもってきた侍女が来るまで立ったままだった。

***

「羌義殿の娘だと」
 馬超の言葉に、羌義の縁者だと名乗った女たちは深く頷いた。
 降りしきる雨の中、どうやってこの屋敷にたどり着いたのか深くは問わないことにした馬超は、しかし彼女たちの身なりを上から下まで何度も視線を往復させて確認した。頭から被っていた長いぼろ布を取らせ、幾人かの女たちに守られるように小さくなっていた二人の少女を呼んだ。
「綺麗になっちゃって」
 馬岱が茶化すように二人を見下ろして愛想笑いを振りまくと、幾分か緊張が解けたのか二人の少女はおずおずと面を上げた。
「お久しぶりにお目にかかります、若様」
 言った傍から少女がぐっと言葉を詰まらせ、馬超様、と言いなおす。馬超はその声に唇を綻ばせ、彼女の頭をがしがし撫でた。
「久しぶりだな、
 と呼ばれた少女は張りつめていた糸がぷつりと切れたのか、無言で馬超に抱きついた。
「その姿だと、大分苦労したみたいだな」
 ぴくりとも動かないに苦笑しながら、馬超は一行を屋敷へ招き入れた。しずしずと付き従うもう一人の少女の名を呼ぶことも忘れずに。
、お前も大事ないようで良かった」
「突然のことで申し訳ございません」
「気にするな」
 馬超はに歩くよう促すと、には馬岱を遣って、彼女たちにひとまず部屋を宛がった。
「話は明日で良い。今日は休め」
「ありがとうございます」
 深々と頭を下げた二人の少女を、馬超はどこか遠い目で見ていた。

 感情に任せるままに駆け抜けた雪の日のことは、今でも鮮やかに思い出すことができる。そして、その後のことも。
 は、潼関から命からがら逃げ出してきた馬超たちを迎え入れてくれた、羌族の族長の娘だった。長く世話になった訳ではなかったが、まだ子どもだった姉妹が何故か嬉しそうに自分たちに纏わりついてきたことが印象的だったのだ。
 姉のは馬超の事を若様と呼んで慕い、馬超も娘か妹かのように可愛がった。馬の扱いに長けていたことも、彼らの距離を縮めていた。妹のも、姉ほどは活発な性格ではなかったが、馬岱の描く絵を気に入ってよくねだっていたものだった。
 そんな彼女たちも、涼州平定の際の戦禍に巻き込まれ一族を失い、さまよい歩いていたという。女ばかりの集団でよくぞ生き延びたと馬超は驚きを隠さなかったが、彼女たちの表情が曖昧に曇ったのを見てそれ以上は何も言わなかった。

「ねえ若」
「なんだ」
「女の子っていうのは、変わるもんだね」
 馬超は振り返って従弟を見た。馬岱は得意の笑みを浮かべたまま、馬超を見ていた。
「三年も経てば、誰でも変わる」
 従弟の真意を測りかね、馬超は黙って寝所へ向かった。

***

 周りの空気が微かに震えたような気がして、馬超は瞳を薄く開いた。小さな足音がゆっくりと近づいてくる。枕元にある短刀を取り出して、ゆっくりと体を起こした。やがて影が見えてくると、馬超はその声が発せられるのを待った。
「若様」
か。遅くにどうした」
「お話ししたいことがあります」
「今でなければだめか」
「はい」
 どこか切羽詰まった声音に、馬超は立ち上がると素早く戸を開いて、彼女が声を発する間もなく部屋へ引きずり込んだ。
「あっ」
「俺を殺しにでも来たのか?」
「なぜそんなことを仰るのですか」 
 は心外だと言わんばかりに目を見開いて抗議した。その剣幕に当の馬超は驚いてしまって、目を瞬かせている。
「いや、おれはてっきり一族の仇討にお前たちが来たのかと」
「なぜ仇討など」
「お父上が戦乱に巻き込まれたのも、そもそもおれの短慮から発したことだからな」
「そのようなこと」
 は自分の腕を掴んでいる馬超の手に触れて俯いた。
「わたくしにはそのような胆力はございません」
 彼女の手が馬超の手からするすると頬へ伸びる。突然の事に身体を離そうとした彼に、はがばりと覆いかぶさった。予期せぬ出来事に馬超は尻餅を付いて、纏わりつく甘い香りと柔らかい身体を反射的に受け止めた。
っ」
「若様、わたくしを」
 ぼんやりとした月明かりだけが滲む暗い部屋で、の白い肌が露わになってけぶる。殴られたような衝撃を馬超はなんとか追いやろうとするが、重なる暖かさに抗うことはとてつもない難事であった。

***

「岱様」
 回廊で庭を眺めていた馬岱は、呼びかけに振り返って驚いた。薄い羽織りものを掛けただけのが、ひっそりとそこに立っていたからである。どことなくあどけなさの残るは、姉のとは違う儚さを纏っている。少女という齢のせいだけではないだろう。昔からという女子は、少し遠くを見つめるような目をしているのだ。
「どうしたの、こんな時間に」
「岱様を探しておりました」
「おれを」
 気が付けば目の前にが立っている。まっすぐな視線がどこか居心地が悪くて、馬岱は困ったように視線を逸らした。
「眠れないの?」
 黙って頷いたの頭をそっと撫でて、馬岱は何か飲もうかと言って彼女の手を取った。しかしは動かない。馬岱が訝しむ間もなく、その手を逆に彼女に掴まれていた。
?」
「岱様、お部屋へ参っても宜しいでしょうか」
「えっ」
は、岱様の所へ行きとうございます」
 握った手はそのままに、が顔を俯ける。耳のあたりまで赤くなっているのを、月明かりがぼんやりと映し出していた。

 言われるがまま部屋へ彼女を通した馬岱は、熱っぽい視線を寄越してくるを訝しみながらも、心のどこかで自分もまたその熱を欲していることを悟っていた。
 はゆるゆると、どこか馬岱の視線を伺うようにゆっくりと掛物をのけていく。帯に手を掛ける際に、ほんの少しだけ手が震えているのを見つけてしまって、馬岱は心の中で苦笑した。

 帯を解いたところで名を呼ばれ、が顔を上げた瞬間に彼女の身体はすっぽりと閉じ込められてしまった。そして次に見えたのは、見たことのない顔をしていた馬岱だった。
 彼の手が肌蹴た袷から入ってきて、白い肌を擦る。唇を押し付けられると、思わず目を強く瞑ってしまい、身体が強張った。恐ろしくなって逃げ出したい気持ちを押し込んで、はなんとかして瞳を開く。しかし、ぎらぎらと光る馬岱の目とぶつかって、今度は涙があふれてきそうだった。
 声も出せない彼女に、馬岱は大きくため息を吐いて体を持ち上げる。は小さく震えながらそれを見上げた。
「ほんと、変わるもんだね」
 慣れた手つきで彼女の衣類を直してやると、抱き起して牀に座らせた。息することも忘れているのではないかと思わせるほどに微動だにしないに、馬岱は優しく問うた。
「どうしちゃったのさ」
「ごめんなさい」
「怒ってないよ。びっくりはしたけどね」
「これしか無くて」
「何が?」
 は許しを請うような目で馬岱を見上げた。涙が眦に溜まって、はらはらと流れ落ちている。
「寄る辺のないわたしたちが、再び命を繋ぐにはお二人しかいないのです」
 膝の上でこぶしを握って、は流れる涙はそのままに口を開く。
「皆が死んだあと、生き残ったのは私たちだけでした。見つからぬようにと、ほうぼうを歩き回り、時には」
 が言葉に詰まる。戦禍にまみれた彼の地から逃げるだけでも命を縮めただろう。しかし、逃げ延びた先には、その日暮らしを支えるだけの労働力が求められる。寄る辺のない彼女たちが、どうやって金を作っていたかなど、の様子を見れば一目瞭然であった。
「わたしたちには、こうして貴方がたに頼るほか無いのです。お願いでございます」
 馬岱は震えながらそれでも気丈に身を呈するに、掛ける言葉が見つからない。
「お願いでございます。岱様」
 馬岱の手を取って自分の身体に当てようとするを、彼は優しく抱いた。小さな体はすっぽりと両腕に収まる。すぐに細い手が背中に回されて震え始めたが、大きな体が壁となって、その嗚咽は彼にしか聞こえることはなかった。

***


「・・・」
、顔を上げろ」
「ひどい顔をしております」
「もっとひどい顔を知っている」
「若様」
「そら、どこがひどいのだ」
 しどけなく乱れている夜着を恥じて、はすぐにそっぽを向いた。泣きはらした顔を見られることも恥だが、それよりも恥じるべきものがあることに、起き上がって気が付いたのだ。
「辛くはないか」
「はい・・・」
「悪かった。おれはどうも加減するのが苦手でな」
「もうそれ以上おっしゃらないで下さいまし」
 重い身体を再度横たえて、は自分を見下ろす馬超を見つめた。
 あの後、慌てふためいた馬超にせっつかれるように問われ、すべてを話した。そのまま放り出されるかと思いきや、彼の答えは違っていた。

「お前は、何もないおれの妻になってくれるか」

 そう零した馬超にが頷くまでに、さしたる時間は要らなかった。
 そこから先のことはあまり覚えていない。


「はい」
「お前が生き延びてくれたことを、この上なく嬉しく思う」
「はい」
「勿論、が生き延びてくれたことも」
 馬超は満足げにの頬を撫でる。
「そういえば、は」
「はい」
「もしかして、岱のところ、か?」
「はい」
 平然と答えるに、馬超はいささか不安になって何か言おうと口を開くのだが、言葉にならず。
「岱様はお優しいので、わたくしのようにはなっていないかも知れませんね」
「おい、それはどういう意味だ」
 馬超がふざけてに覆いかぶさると、彼女は身を捩って小さく笑った。
「若様は加減をお知りでないから」

***

「岱様」
「ん?」
 すっかり泣き終えたは、おどおどしながら馬岱を見上げる。心中を吐露してしまったあとの、何とも言えないしこりのようなものがにはあるらしく、どこかよそよそしい。
「ごめんなさい」
「何で謝るのさ」
「失礼なことを・・・」
「おれとしては、あのまま続けても良かったかなと思ってるんだけど」
 言うや否やの顔が真っ赤になって、びくりと震える。あまりからかいすぎると、本当に触れられなくなってしまいそうだったので、馬岱はくすくす笑うだけで止めた。
「ねえ、
「は、はい」
「君が思ってるほど、おれは優しくないと思うよ」
 疑問符を浮かべるを見下ろし、馬岱はもう一度袷を直してやる。解けかけている帯を結んでやる。
「できるだけ、努力はしようと思うけど」
 頭を撫でて露わになった額に口づけると、それだけで恥ずかしがってしまう彼女が可愛くて仕方がなかった。
「で、本題なんだけど」
「はい」
は、おれの奥さんになってくれるの?」
「あ・・・は、はい」
 妙な行間が気になって、馬岱は彼女の顔を覗き込むが、それは杞憂であった。
「ねえ」
「はい・・・」
 だんだん小さくなっていくを、馬岱は笑いながら抱きしめた。





寸感:スピード婚な馬一族