闇はささやく
それは、吹く風も未だ冷たい弥生のこと。
越後の名門・直江家へと婿入りした兼続は家中をまとめるため、新妻・に後ろ髪引か
れる思いでは有りながら連日のように屋敷を空けていた。自分よりも年上で、肝も据わっ
ているにしてみれば、どうということもないだろうと彼は思っていたのであった。
しかし、肝の据わっているはずのの胸中は思いのほか空しかった。
先の夫とは死別し、子もない。そう長いとはいえない幸せな生活を突如として奪われ、
気がついてみれば隣にいるのは自分よりも三つも年下で、将来有望の麒麟児。彼の人とな
りを知ろうと思っても、彼はここには居らず城に篭ったまま帰ってこない。はどうしよ
うもないと思いつつ、誰とも触れ合えぬ寂しさを奥に溜めたまま毎日を過ごしていた。
肝が据わっているといっても、一人で生きていけるほど強くはない。自分で言うのもな
んであるが、庇護されたいと思う気持ちは人一倍強いと思っているのだ。
(兼続さまは今日もお帰りにならない…)
ふう、と艶のあるため息はとても胆力の備わりし女子とは思えぬ可愛らしさを際だ出せ
るようにその唇から吐き出された。
良人が帰ってこないのは、ほんの少しのことだ。黄泉の国に出かけたわけでもあるまい
とは己を慰めようとしたが、小さく敷かれた布団を見るとどうにも情けなくて仕方が無
い。は覚醒しきった頭で庭に出ると、蕾を硬く閉じた桜を見て回った。そこからは未だ
花開く予兆は見られない。
(でも、いつかは開くわ…)
時がたてば、全て上手く行くのだとは言い聞かせて部屋に戻ろうとした。その時、自
分を呼ぶ若い男の声がした。
「だれです」
「お嬢さん、桜ばかり見てもつまらないでしょう」
声は塀の向こうからしていた。はいぶかしんで近づこうとはしなかったが、男が自分
の行動を見透かすような言動をしたことに興味を持った。
「なぜ桜を見ていたと?」
「うつくしい方。あなたが動けば木々がざわめくのですよ」
「…風は吹いていませんわ」
もっともな返答をされて、男はくすくす笑った。はそれが面白くなくて思わず「なに
を笑っているのですか」と言い返してしまった。男の笑い声はまだ続く。
「無礼じゃありませんこと?」
「失礼をいたしました。しかし、怒ったお声もまた麗しい」
「褒めても無駄です」
は男の言葉をはっきり聞き取るために、塀に近寄って男を捜した。
「わたしはここですよ。大きな桜の木があるでしょう」
は言われるがままに、庭で一番大きく、塀を通り越して向こう側へと枝を伸ばしてい
る桜の木の本に座った。
「あなたは、だれ?」
「そんなこといいじゃありませんか。わたしは貴女とお話に来たのですよ」
男は話をはぐらかした。はそれを言及しようとしたが、男が「ぜひあなたと」と言葉
を発したので止めた。
「わたくしと?」
「ええ」男はゆっくりと話し出した。
「他愛も無いことです。美しいあなたの声を聞きたい、ただそれだけのために」
はかあっと顔が熱くなるのを感じた。これは怒りか、否。
「なんてこと…」は熱が顔から下へと回ってくるのを感じた。
「言ってください。あなたとお話出来るだけで、わたしは幸せなのですから」
あくまで自分から話そうとはしない男を憎く感じつつも、は話さずにいられなかった。
「いつからそこに?」
「昨日も、一昨日も、あなたがお出でになるのを待っていました」
「ずっと?」
「ええ。人に見つからぬよう、闇夜にまぎれてお待ちしておりました」
はじめ男の言い草にあきれていたは、しだいに彼の声に体の奥が蕩けるような快感を
覚えた。そして男の姿を想像した。そこに居るのは、厳つくなく、ほっそりとした背の高
い男。は男の口から紡ぎだされる賞賛の言葉を聴くようになった。
「わたくしだけを?」
「あなただけを……こうしてお話できるのが夢のようです」
「そんなに?」
「わたしは馬鹿な男です。こうして、見つかってしまえば首をはねられてもおかしくない
というのに」
しかし、お顔を拝見という無礼な真似はいたしません、と男はため息混じりに言った。
「お話、だけならば」
はまいったとい風に顔をすこし赤らめながら答えた。もっとこの男の声を聞いていた
い、その声に囁かれたいと、奥底で何かが叫んでいた。
「ああ!うつくしい人、これほど嬉しい事が有りましょうか」
は答えられなくて俯いた。ここ数日、満たされなかったからの器にゆっくりと温かい
ものが注がれていくような感覚を覚える。
「あなたが歩けば木々はざわめきを止めました。そろそろと聞こえる足音のなんと可愛ら
しかったことか…」
男は悦に入ったように唇を動かした。そこから漏れ出る言霊がの体をしびれさせる。
「あなたの足音がぴたりと止まったとき、わたしの心の臓は跳ね上がりました。うつくし
い人、あなたがここへ来て下さったというそのことで、私の胸は沢山の熱いものが脈打っ
ています…あなたに出会えた今日という日に感謝します」
「ああ、あなたも…」
はおもわず声を出した。
―胸が満たされたのは自分だけではなかった。
そのことがを大胆にさせた。
「…明晩もここに?」
「もちろん。あなたがいらっしゃるまで、闇にまぎれていつまでもお待ちしています」
今宵はもう遅いのでこれにて失礼、と男が言うと、はおもわず「待って」言いそうに
なるのを抑えた。紡ぎだされた言葉に、のからだは火照っていた。
びゅう、と風が吹く。
吹く風が火照りも飛ばす、弥生も始めの頃であった。
二.