二.

「兼続さまが?」
 部屋で書物をめくっていたは、侍女の言葉に思わず声を上げた。婚儀を挙げてはやひ と月。ようやく良人が屋敷に帰ってくるとの事であった。良人が帰ってきたという知らせ を聞いても、全く心躍らないことには驚きこそすれ、特にどうしようということも無か った。妻としてやらねばならぬ事はしなければなるまい、と義務的な行動だけがそこにあ った。
「お出迎えの支度を」
「かしこまりました」
 侍女が去ると、は妙に緊張した体をほぐそうと廊下に出た。
 婚儀のその日に肌を重ねて以来、彼とはまったく会っていない。寂しさはいつしか薄れ ていったが、新たな良人との心躍るような生活を期待することは出来なかった。噂に聞く 良人は非の打ち所の無いような男で、は彼を評価しかねていたし、妙な先入観と偏見が 渦巻いていた。
 ―兼続を見極めねばならぬ。
 は戦にでも望むような気持ちで、廊下に悲鳴が上がるのを聞いていた。
「おかえりなさいませ」
「ああ、今帰った」
 面を上げると、疲れたように微笑んだ兼続が立っていた。その肩にいつくかの桜の花び らが乗っていることには思わず桜の向こうにいる男の事を思い出した。しかし、そんな 事があるはずも無い。彼はに「もう慣れたか」と聞いた。
「それはあなた様の方では」
 は兼続が入り婿である事を皮肉って言った。兼続は少し驚いた顔をしていたが、すぐ に破顔して「そうだったな」と言いながら彼女の向かいに座った。
「お休みになられますか?」
「…ああ、すまないがそうさせてもらおう」
「わかりました」
 は声を掛けて、床の準備をし、兼続を床に付かせた。共に寝るかもしれないという淡 い期待は静かに裏切られ、は不満げに部屋を出た。すぐに寝付いた彼の口から、「、 すまない」という言葉が聞こえたが、は無視して庭に出て行った。徐々に蕾を膨らませ つつある桜が目に入った。先の逢引を思い出し、は震えた。
(あの声はわたしを満たしてくれる)
 するすると無意識のうちには庭に出ていた。大きな桜の木下に行くと、はささやか な期待を持って腰掛けた。すると、すぐに声が掛かった。
「来てくださったのですね」
 は打ち震えた。わたしの足りないものを満たしてくれる何か、それがすぐそこにある 喜びを感ぜずにいられなかった。
「ずっと待っていてくださったの」
「もちろんです」
 はそれきり黙った。彼の声を聞いているだけで心踊り、体が熱くなった。
「ここでは現の事は忘れてください」
「…ええ、ええ」
 男は再び熱を帯びた声で語りだした。はうっとりとした表情で、桜にもたれ掛かって いた。
「わたしはあなたを愛しています。しかし、それは見た目のことではありません。言葉を 通じて、音を通じて感じる心です。あなたの音はわたしを幸せにする。ただそれだけなの です。心地よい高さ、大きさ…歩く音、座る音、ため息の音…すべてがわたしを満たすの です」
 は魂でも抜けてしまうかのような快感の中で、目を瞑ってその音だけを聞いていた。
意味はもはや関係なかった。男はその後、半時も語り続けた。語り終わって男が去ってか らも、は木下で放心していた。


三.