三.
それ以後、七日置きに現れた男はそのたびにの心を蕩かすような言葉を発しては消え
た。は格別なものが見出せない結婚生活の中で、それが大きな楽しみとなってなんとか
普段を過ごしていた。
―七日たてば、平凡な日々を満たしてくれるものが手に入る
はそうして得る快感に喜びながら、その裏では大きな罪悪感を感じていた。良人に対
する裏切り、それを兼続に尽くすことで償っているような気がしていた。
一年前に比べれば、の兼続に対する態度の変化は、豹変といってよいものであった。
兼続が驚くほどには彼に良く尽くしたし、兼続のに対する感情も比例するように柔ら
かくなっていった。どこから見ても、二人は仲のよい夫婦であった。
七日後、はいつもどおり桜の下にいた。いつもならばここですぐに声が掛かるのだが、
今日は物音一つしない。は逸る心を抑えつつ男を待った。会うまでの時間が長ければ長
いほど、囁きの後の快感は大きくなる。
「遅れて申し訳有りません」
「いいえ…でも、どうなすったのです」
「実は」男は言うとすぐに「いえ、何でもありません」と言葉を濁した。待たされた上に
理由をはぐらかされたとあっては、とて黙ってはいられなかった。桜にぴっとりと寄り
添って「おっしゃってください」と急かす。
「いけません。言ってしまったら、もう私たちは…」
「かまいません、おっしゃって」
話の内容など右の耳から左の耳へするすると抜け出てしまっていた。男の声が長く聞こ
えるならば、その中はなんでも良かった。
「悩みながら歩いてきたのです」
「なにを」
「あなたとわたくしがこうしてお話して、もう一年が過ぎようとしております」
は耳から抜け出ようとした言葉を、急いで中に戻した。その言葉に次がれるものは、
いくら声音に酔い、夢のような恋をしている彼女にも分った。
「もう、我慢がなりません。あなたさまのお袖を引かせてくださいませ」
「いいえ」は頭まで上りきっていた熱が一気に冷めるのを感じた。「いいえ、それ以上
はおっしゃらないでくださいまし。わたしは斯様なことを聞くために来たのではありませ
ん」
「ひどい方だ…ご自分でおっしゃってと申されたのに」
それを言われてはぐうの音も出ないは、口ごもった。「ですが、それ以上おっしゃら
れるなら、わたくし帰ります」
「待ってください。気の迷いなどではありません」
「いいえ、もう結構でございます」
「あなたをずっとお慕いしていたわたしは、あなたと会うことも許されないのですか」
「いや、もうやめてくださいまし。わたくし帰ります」
「待って、いかないで…」
立ち上がり、足音が遠のくと、男は小さく舌打ちして立ち上がった。月明かりが目に染
みて、目の前が刹那暗くなった。目を擦り前を見ると、黒い影が立ちふさがっていた。咄
嗟に腰に手を伸ばす。
「なんだ、てめえ」
「随分だな。それはこちらの科白ではないか」
月明かりに照らされてそこに立ってたのは、直江兼続その人であった。男はびっくりし
て動きを止めたが、すぐに刀を抜くと兼続に斬りかかった。するりと風のように太刀筋を
見極めて、兼続は男の腕を捻りあげて地面に叩き付けた。蛙の潰れたような声がして、濁
った双眸が彼を睨みつける。
「わたしの妻に随分なことをしてくれた」
兼続は捻りあげたままの腕に、力をこめて呟いた。
「あの女は乗り気だったみたいだが」
「たわけ。その口でどれだけを虜にしたかは知らんが、わたしは自分のものをとられて黙
っていられるような性分ではないのでな」
「けっ」
ほざけ、と男が吐き捨てた瞬間、兼続は腕をあらぬ方向に捻じ曲げてぱっと手を離した。
声にならぬ叫びを、男は上げながら悶えた。逃げ出そうとする背中に、兼続は冷ややかに
言い放つ。
「帰って己の姿を良く見ろ。再度見えれば、その口をきけぬようにしてやる」
男が見えなくなると、兼続はふうっと息を吐いて桜を見つめた。妻に仇なすものは去っ
た。しかし、あの囁きは妻が望まなくなるまではなんとしても続けなくてはならない。
(こんな事で、の心に傷を残してはいけない)
婚儀を挙げてから、ろくに話すことも出来なかった自分を不甲斐ないと思う。もっと自
分が彼女と打ち解けようと努力していれば、このような事態にはならなかったかもしれな
い。
―今はそんな事を言っている場合ではない
となれば、己に出来ることは唯一つ。
「やるしかない。あれを助けるためにも」
幾度も行われていた密会を、兼続も何度か耳にしていた。あれだけの頻度のことならば、
同じ床で眠っている者が気づかないわけも無いのだ。そのときの事を思い出せば、自分に
だって彼女を満足させてやることぐらは出来るだろう。
兼続は抜き身もそのままに裏口から屋敷に入ると、厳しい顔をしながら部屋に入ってい
った。
四.