四.
幻想的な恋を自分の手で壊してしまったという罪悪感に、は鬱怏とした日々を過ごし
ていた。あれから七日ごとに庭に出ようとするのだが、なかなか足が進まず、結局、ひと
つき夜の逢瀬を控えていた。しかし、頭でやめようと思っても体が七日の周期に負けてし
まい、とうとうは花に誘われる蝶のようにふらふらと庭に出て行ってしまった。
「やっと来て下さった」
久方ぶりの声音に、はしびれが体中を駆け巡るのを感じた。
「あなたは、わたくしで遊んでおられるのですか」
「この前のことですね」
男は申し訳無さそうな声でもって言った。
「この前はどうかしていたのです。お姿を拝見しようなどと大それた事を…」
「では、申し訳ないと思ってらっしゃる?」
「もちろんです。わたしたちの恋は、こうして密やかに語られるものです」
「おっしゃって…」
それが聞きたかった、とはふよふよと浮き上がりそうな心を鎮めるのがやっとだった。
再び訪れた夢のような時間。もう何も恐れることは無い。男も私も、この声だけの逢瀬を
楽しむ夢想の住人になりきってしまっているのだ。
男のささやきが終わった後、は涙を流しながら屋敷に戻った。もう、心に波風が立つ
ことは無かった。
それから、は今までにもまして兼続に愛情を注ぐようになった。それは兼続が驚くほ
どに明らかな変化であった。
「兼続さま」
「なんだ?」
「わたくし、庭に桜が欲しゅうございます」
「あれだけでは足りないか」
兼続は不思議そうに聞いた。特別広い庭ではないが、そこが殺風景にならない程度に木
々は立っていたので、それ以上増やす必要性を彼は感じなかったのだ。
「もう少し、お庭を華やかにしとうございます」
「うん…そうだな、それもいいだろう」
兼続は二つ返事で引き受けた。今は、彼女が喜ぶことなら何でもしてやりたかったのだ。
「ありがとうございます」
「いや、構わぬ。しかし、今から植えれば、咲くのはいつであろうな」
微笑みながら兼続が言うと、は「わたくしたちが爺と婆になることにはきっと満開で
ございます」と少し照れたように答えた。兼続は幸せそうな妻の横顔を見ながら、満足げ
に口元を緩めた。
***
いつものように男のささやきを聞いていると、はその中に気になるものを見つけた。
「この桜がもっと花を増やすように、わたくしたちの恋も長く、たくさんの愛に満ち溢れ
ることでしょう…少なくとも、わたしはそうありたいと思っています」
「長く、たくさん…」
はうっとりとして聞いていたが、この桜が増えるということがどういう意味なのかを
考えて、あっと声を出しそうになった。桜が増えると、この男は確かにそう言った。
―時がたてば、桜の花が増える
なぜもっと早くに気づかなかったのか。始めて家に帰ってきたとき、あの人は疲れた顔
で、からだに桜を乗せていたではないか。自分が帰らない事を、寝言にまで出して謝って
いたではないか!
幸せと恥ずかしさでまともに歩くこともままならないは、桜の木々を伝うようにして
屋敷に帰った。そして良人の部屋へと歩いていき、一呼吸置いて勢い良く障子を開けた。
そこには、驚いたようにこちらを見つめる優しい双眸があった。その姿はいつも通りであ
ったが、少しかすれた声と、纏ってる冷たい空気は、明らかに今帰ったことを物語っている。
「どうした、こんなに遅くに」
兼続は驚きに見張った目を優しく細めると、何も言わず胸に飛び込んできた妻を支えた。
「恐ろしいことでもあったか」
震える背中を撫でてやれば、彼女は堰切ったようにからだを揺らせてしゃくりあげた。
兼続は何も言わず、ただ彼女の言葉を待った。
「わたくし…」
「うん?何を泣く」
優しく答えれらる度に、はからだを震わさずにはいられなかった。この方は、わたく
しの全てを知ってくださっている。わたくしに何が必要なのか、なにを求めているのかを
全て!
「泣かぬでよい。それとも、それほどまでにこの兼続と居るのは辛いか」
「いいえ、いいえ!」
兼続は撫でていた手で彼女の背中を引き寄せると、両手の腕で強く抱いた。壊れてしま
うかのようなからだから、細い腕が自分の背中に巻かれた。
「見て御覧。桜があんなに綺麗に咲いている。次の春も、その次の春も、時が経つだけた
くさんの桜が咲くぞ」
もう泣くな、という良人の声に、は桜の向こうの声をはっきり聞いた。
後記