越後騒動―夫婦ノ図・第一夜―


「じゃあ行ってくる」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
 いつも通りに良人の背中を見送り、はふうと息を吐いた。

 の一日は長い。
 屋敷中の管理を侍女だけに任せず、段取りを組み、指揮を取ることが彼女の日課だった。
 
 どうも自分でやらないと気がすまない性質なのか、はたまた大きな屋敷に沢山の召使を 抱え、あれやこれやと世話を焼かれる事に慣れていないのか。おそらく両方だろう、とは思っていた。
 いまの良人に嫁ぐまで、医者である父と特別不自由のない生活は送っていたが、召使な どほんの少しで、自分のことは自分でやっていたから、今のように何でもかんでも人任せ という事が無かったのだ。であるから、この屋敷に来て、侍女たちとまず話をした事は、 屋敷内の全てのことはとりあえず私に話を通すように、であった。それからは食事から掃 除洗濯、金銭問題、いかなることも自分の耳に入れ、頭で考えて取り仕切ってきた。当た り前といえば当たり前であるが、彼女はどうもそれを丁寧にやりすぎるようだった。
さま」
 侍女頭のさきが、にこにこと微笑みながら声をかけてきた。さきはがこの屋敷に来 る前から、付き人として何かと助けてくれる存在だった。以前の屋敷からの付き合いで、 良人に嫁いだ始めての日に顔を合わせて以来、一度も離れたことがない。
「なあに」
「石田様のご正室さまからお手紙が」
様から?」
 さきから手紙を貰い、とりあえず部屋に戻って手紙を開いた。美しい字で時候のあいさ つがあり、体を壊しては居ないかと自分を心配する言葉が並んでいた。
(私ってそんなに弱弱しくみえるのかしら)
 ほわわんとしたの事を思い浮かべながら、は手紙を読み進める。
「可愛らしい菓子を良人が太閤さまより頂いたので、是非お出でなさい…」
 短い手紙を文箱に直すと、はまた彼女が可愛らしい悩みを抱えているのかしらと思 いながら、さきを呼んだ。
「どうかないさいましたか」
様からお呼ばれが掛かったの。着替えるから手伝ってちょうだいな」
 さきは畏まりましたといって、着物を探し始めた。
様ってね、お暇だったり悩み事があったりすると色々理由をつけて私を呼ぶのよ」
「お嫌なのですか?」
 こちらを見ずに言うさきは、聞きながらの真意を分っているようだった。
「いいえ、むしろ好ましいくらい。あんな可愛い悩みを聞かせていただけるんだもの」
「石田様と奥方様は仲が宜しいんですのね」
 さきは幾つかから良さそうな着物を選び、に差し出した。は何も言わずにそれ に袖を通し、「あのお二人はとっても初々しいわ」と言った。

***

「ああ、いらっしゃい」
 が手招きしてを呼んだ。勧められるがままに座り、を見た。
(あらご機嫌…)
 今日のは何かに悩んでいるわけでも、暇を持て余しているわけでもなさそうだった。
むしろ、いつに無く上機嫌での来訪を心から喜んでいるような風にも見える。
「突然でごめんなさいね。でもすぐに来て欲しかったの」
「何かあったのですか?」
「太閤さまから可愛らしいお菓子を頂いてね……だれか」
 が声をかけるとすっと襖が開き、年配の女が小さな菓子器を運んできた。が嬉 しそうにに「お食べなさい」と声をかけた。
「まあ、可愛らしい」
 菓子器に盛られているのは、涼やかな清流を思わせる淡い青の菓子であった。ほんのり とした緑が菓子の表面に塗られている。青にくるまれた白い餡が下から透けて見えて、ふ と暑さを忘れた。
「可愛らしいでしょう?さ、さ、お食べなさい」
 食後の感想が聞きたいのだろうか、はしきりに「お食べ」と言った。
「では、お先にいただきます」
 が涼やかな練りきりを口に運んだと見ると、はほっとしたように彼女をみなが ら「実はね、今日来てもらったのはこの為ではないの」
 は二口目を運ぼうとして止めた。しかし、は気にせず続ける。
「これから暑くなるから、その前に三成さまと越後の直江さまのところへゆくの」
「それはよろしゅうございます」
 越後はさぞ涼しかろう、との口元は、菓子の甘さも相俟ってすこし緩んだ。
「直江さまの奥方がね…姫さまというのだけれど…とっても良い方で、わたくしにいつ も楽しいお話をしてくださるの」
 は黙っての話を聞いた。の顔はいつもより明るくて、楽しそうだったのだ。
(三成さまもご同伴…きっと、さまはそれだけで嬉しいのよね)
 夫婦間にそのようなときめきのような物がある事が、はたして幸せなのかと聞かれれば、 は間違いなく首を横に振るだろう。それは少なくとも彼女の良人と彼女がそれなりに 仲睦まじい時間を積極的に持てているからである。しかし、の場合は良人の繁雑を考 えれば、ともに在れる時間を持てること自体が幸せなのだろう。
(だからこそ…)
 この方の嬉しそうな顔は見ていて幸せになる、とは思わずにはいられないのである。
「そうそう、幸村殿の奥方もいらっしゃってね、それが姫というのだけれど…この姫 がまた可愛らしいの。幸村殿と一回りほど年が違うけれど、とてもしっかりしていて…」
「ひ、一回りですか」
「ええ、本当はもう少し離れているそうだけど……確か、ちゃんは十四五よ」
ちゃん?)
 は頭の隅に引っかかっているはずの、ゆきむらの文字を探した。
「幸村殿といいますと、あの真田様の?」
「そうよ」
 は見たことは無いが、良人との会話に何度か出てきていた。真田源二郎幸村と言っ たか。たしか彼は、若くして上杉に人質として差し出され相当な苦労をしたが、武芸は比 類なき物が有り、策略家として名高い父にも勝るとも劣らぬ知略の持ち主だとか…
(それと奥方の年齢は関係ないけど…なんか結びつかないわ…)
「いつもは三人でお話をするのだけれど、此度は貴女にも来て欲しいの」
 まだ見ぬ幸村との二人を想像していたは、の発言に刹那気づかなかった。
そして、自分に向けられているの笑顔を見つめて、間抜けた声を出した。
「いま何と?」
「今度の越後行きに、貴女にも同伴して欲しいの」
「え、えちごですか」
「だめかしら」
 は無垢な瞳をこちらに寄せて、一緒に行きましょうと腕でも掴まんばかりに体をず いとの方へやった。それにつられて、の体が後ずさる。
「三成さまがね、同伴者なら貴女が良いって仰られたの」
「三成さまがですか?」
 これにはも驚いた。一度、に会う前に三成と話したことはあるが、同伴に推さ れるほどの何か印象深いことをした覚えは無い。
「貴女にも色々あるでしょうから、無理強いはしたくないのだけれど、三成さま…というよ りも左近殿によれば、貴女は暇だって聞いたものだから」
「ひま?」
 は幾分不快感をあらわにしながら言った。確かに四六時中忙しいという訳ではない が、毎日暇に過ごしている気は全く無い。
「それは、左近さま…わが良人が申したのですか」
「わたくしは直接聞いたの訳ではないのだけれど、三成さまは左近殿がそう言っているし いつも貴女に来てもらってるんだったらにしろと…」
「そうでございますか」
 は頬を引きつらせながらに答えた。どうやら良人は自分が毎日暇に過ごしてい ると思っているらしい。
「良いかしら、?」
様が仰られるならば、私にそれを拒む理由はございません」
 引きつる顔を隠しつつ、の喜びの声を聞いた。
 


二.