二.
「お帰りなさいませ」
「さき、左近さまはいつごろお戻りだったかしら」
部屋に入るなり着物をさきに押し付けて、内掛けを乱暴に羽織りながらは問。
「四日ほどでお戻りかと」
「実はね、様に付いて越後へ行くことになったの」
さきは目を真ん丸くして驚いた。
「越後、にございますか」
机から筆と硯、紙を出すと、はするすると筆を滑らせた。「明後日に出発して、し
ばらく帰りません」
「越後は涼しゅうございましょうね」
「そうね…なにか欲しい物はある?」
「ふふ。とんでもございません。私は結構ですから、旦那さまにお一つでも持って帰られ
ては?」
の筆がぴたりと止まった。脱ぎ捨てられた着物を畳んでいたさきは、わなわなと震
えだした主を見て、思わず声をかける。
「さま?」
「……さき、私は毎日暇そうに見える?」
「は?」
「様がね、私を同伴者に選んだ理由のひとつが私が暇そうだからだって…」
「まあ、なんてことを」
「様が仰った訳ではないの」
「石田様ですか?」
「いいえ」
「では誰が」
「…左近さま」
さきはに掛ける言葉が無くなって、思わず下を向いてしまった。
「私、そんなに暇そうだったかな…」
「さま…」
「……そんなことないわ…」
しょんぼりと小さくなっていたかと思うと、の纏っている雰囲気は段々不穏なもの
になってきた。
「毎日朝餉を確認して、味見もして、洗濯だって左近さまの分は私がやってるし…掃除も
私の管轄…」
ぶつぶつと日課を唱え始めたにさきは驚きこそすれ、どうすることもできず、ただ
ただ主を見ていた。これは久しぶりに爆発するかもしれない、と思いながら。
「なのに……」
戦慄く腕をなんとか止め、は筆を再びするすると動かし始めた。口は相変わらず何
事かぶつぶつと言っていたが、さきにはそれが何なのか見当も付かなかった。
***
「、大事無い?」
「はい。体力には自信がありますので」
えっちらおっちら駕籠に揺られながら、との一行は越後へと向かっていた。そ
の道のりは長かったが、あと半日もあれば到着する所まで来ていた。
「もうそろそろね……この辺りで昼餉にしましょうか」
「様、日が暮れるまでに着いたほうが宜しいのでは?」
「いいのいいの。ほら、だって担ぎ手たちも休みが無いと大変でしょう」
はそう言って駕籠を止めると、するりとそこから抜け出した。
「様!」
「もお出でなさい。空気が冷たいわ」
いそいそとも続く。が遠くに行かないよう気を払いながら、大き目の石に腰掛
けた。すると、おもむろにからすっと水を渡されて、思わず付き帰しそうになった。
「様がお飲みください」
「わたくしはもう飲みました。いくら涼しくても夏ですから、しっかりと水は取らないと」
ぐいぐいと押し付けられるように手に持たされて、は流されるままに水を飲んだ。
すっと喉を通る感触が、いままでの疲れを吹き飛ばすようだった。がその顔を見て、
ふわりと微笑んだ。もそんな彼女の顔を見て、微笑み返そうとしたその時だった。
「様、さま!早く駕籠へ!」
「何事です!」
不安そうに担ぎ手を見つめるを駕籠に押し込めながら、は言った。
「物取りでしょう…たいした事はありませんが、数によっては安心できません」
「とにかくお乗りください」
「ええ」
が駕籠に頭を入れようとした時、ひょう、と嫌な音がした。
「どうやらお急ぎのようだが、どちらへ?」
薄汚れた羽織袴に鈍らを引っさげた浪人風の男が五六人、の後ろに立っていた。は思わずの乗った駕籠を走らせた。刷り込まれた防衛本能が、とにかく一人でも逃
がすことを選んだのだった。遠くの方からが自分を呼ぶ声がした。
「さま、お下がりを」
「お嬢さん…いや、そのなりはどこかの奥方さまか?…まあ、どっちでもいい。いい駕籠
だな。どこへ行くんだい」
にやにやと顎をさすりながら、浪人たちはゆっくりと距離を詰める。は担ぎ手と護
衛に囲まれるように立っていた。
「お前たちに言う義理は無い」
「おお怖い。しかしその強情さもどこまでもつやら」
鞘に包まれたままの鈍らの切っ先を大地に刺すと、周りを取り囲むように物取りがわっ
と出てきた。
「女ふたりに大層なこと…」
「女ふたりだからだよ。おれたちゃ追剥ぎじゃないからな。純粋に楽しみたいだけよ」
周りの男たちがどっと笑う。はその笑えない冗談を頭の中で思い描くと、とにかく
だけでも逃がせたことは幸運だったと思わずには居られなかった。
「……」
じりじりと距離が縮まっていく。しかし、担ぎ手も護衛もぴくりともしない。は少
し不安になって耳打ちするが、黙って、と言われるだけで何も反応がない。
(こんな所で死ぬのはいや…)
いや、簡単に死ねるのならば構わないが、それよりも屈辱的なものが待っていることは
必至である。
「抵抗なしか、じゃあ、お楽しみと…」
その言葉は続かなかった。は目の前で男が刺し殺されたのを見ると、腰が抜けそう
になるほど驚いた。自分のすぐ隣に居た担ぎ手が、音も無く槍を突き出したのだ。
しかし、驚いたのは自分だけではない。吃驚していた周りの男たちが、少し遅れて一斉
に飛び掛ってきた。いや、来るはずだった。
「な、な…」
目の前の男から視線を外すと、そこにはばたばたと倒れこむ男たちの姿。そして、代わ
りに立っていたのは、数人の見慣れぬ男。
「っ!大丈夫か!」
と、見慣れた男だった。
三.