寝目の御神渡り


 薄く霧の掛かったような景色。かろうじて大地の感触を感じることが出来るが、先は何 も見えない。左近はそんな不安定な道を何も考えずに進んでいた。

(なんだここは)
 がたがたした土の感触が終わると、いつの間にかきれいな屋敷の一室にいた。畳の上に 土足で上がってしまったことを後悔するが、もう遅い。
「だれですか」
 若い女の声がする。左近の頭の中では迂闊に近寄ってはいけないと警報が鳴るのだが、 足は頭の事なんか無視して進んでしまう。
「だれ?」
 目の前には小ぎれいなものに身を包んだ小柄な女。齢はまだ十五六ほどだが、なんとも 可愛らしい顔つきをしている。
 左近にはまったくといっていいほど心当たりの無い人物である。しかし、口から出るの は彼女の名前。なぜ知っているのか?自分にだって分らないのだからどうしようもない。
さん、左近のことをお忘れですか」

 とはだれか、自問する前にその言葉はするすると唇から出て行った。
 名前を呼ばれた女は、ぱあっと顔を輝かせて「お待ちしておりました」と言って立ち上 がった。立ち上がっても自分より頭二つ分はゆうにある身長差に、左近は思わず笑みがこ ぼれる。
「今日はこの前のお話の続きを…」
 はそう言いながら、自分の胸に飛び込んできた。

***
 
 あの夢の少女は一体だれなのか。
 夢の中ではあんなにはっきり見えていた顔が、今となっては輪郭と雰囲気しか思い出せない。
(きれいな体つきだったが)
 つるんとしたなで肩は、おもわず抱きしめてやりたくなるような愛らしさだった。
(夢見が良いのは結構だ)
 誰かに殺される夢よりはよっぽどいい、と思いながら左近は口元を緩めた。

「なにをにやにやしている」
「うわ、殿どこから湧いたんですか」
 心地よい回想を邪魔されて、左近は露骨に嫌そうな声を上げる。そこには赤毛の美男子 が立っていた。
「失敬なやつだ。俺は虫ではない」
「全然気配が感じられませんでしたよ」
 どっかり左近の隣に胡坐をかいた三成は、じいっと彼の顔を睨む。
「な、なんですか…」
「…朝から何を考えていたのか知らんが」
 左近は少し後ずさる。しかし三成の扇が飛んできて、すぱんと彼の額に命中した。
「にやにやするな」
「って…!…殿!あんまりじゃあないですか」
 何かご不満なことでもあったのですか、と額をこすり左近が言う。
「腹が立つ」
「何がです」
 左近は半ばやけになりながら三成に返す。三成はいつの間にか手元に戻ってきていた扇 を口元に当てながら「おまえの笑い方が」と暴言を吐いて出て行った。


「何なんだ、一体…」
 彼からの八つ当たりなど数え切れぬほど受けているが、今日ほど突拍子もないことは初 めてだった。個人的になにか憤ることでもあったのだろうか。
(おれの知ったこっちゃねえよなあ………ん?)
 三成が去ったあと、彼の座っていたところに白いものが残っている。どうやら紙らしい。
 手に取ると、かすかに甘い匂いがした。表にも裏にも文字は無く、左近はそれを慎重に 開いた。中には清興さまと書かれており、きれいに手折られた文目が一輪挟まっていた。
「これ…」
 三成はこれを自分に届けに来たのか。彼がわざわざする事だとは思えないが、とりあえ ず左近はそれをしまった。
(嫉妬なんてするひとじゃあないしな)
 自分が女にもてるのが気に入らないのか、と左近は微かに眉間に皺を寄せた主のきれい な顔を思い出す。
(殿にはもう奥方さまがいらっしゃるし……あの人が僻む?…)
 それこそ有りえない、とひとりごちながら、左近は三成の不快そうな顔を思い出してす こし笑いそうになった。


二.