元宵節(上元)


 あまり体調の思わしくないにとって、今日が元宵節の日で朝まで宴会が行われると 
いう情報は決して嬉しいものではなかった。以前も何かの宴のときには引っ張り出さ 
れたことがあるのだが、あまり好きではない。宴会といえば全体的にざわざわしていて落 
ち着きがないし、その空間に漂う香りを吸っただけで変な気分になる。それが自己の解放 
だとかなんとか言われて酒をたらふく飲まされそうになったこともあった。酒は嫌いでは 
ないが特に好きでもない。色々なことが頭の中を駆け巡り、ただでさえふらふらしている 
頭がパンクしそうになって、考えるのを止めた。 
「どうだ、調子は」 
 いつもより遅めに起きて来たに、朝食を平らげたばかりの夏侯惇が声を掛けた。こ 
の娘の体調が悪いのは三日ほど前からで、もう少し前からなんとなくおかしいという事に 
は気づいていたのだが、仕事を休めとは言わなかった。見ていてそれほど酷そうでもない 
し、彼女も何も言わなかったからだ。しかし、一昨日ごろから目に見えて弱っていった。 
しきりに鼻を啜ったり咳をしたりで声は掠れ、頭を動かすことでさえ億劫そうだった。見 
るに見かねて昨日から休ませているのだが、もう少し前から休ませておけば良かったと後 
悔する。 
「…思わしくないです」 
 ゆっくりと椅子に腰掛けると、ふうと溜息をついて箸を取る。のろのろとした動作で手 
と口を動かすが、心此処にあらずといった体であった。頬は少し赤く、平生きつめの印象 
を与えている切れ長の目はとろんとして垂れ下がっている。それはそれで可愛いなどと思 
いながら、夏侯惇は今日は早めに帰れると思うと言った。 
「今日はお祭りじゃないんですか?」 
「そうだな」 
「宴会には…」 
「お前がその様子じゃ行けそうにもないし、つれて行けないんなら行っても仕様が無い」 
 その言葉の意味を測りかねては眉をひそめる。それは自分が行かないから彼も行か 
ないのか、自分を連れて行かないと彼が宴会に行けないのか。箸の止まったを夏侯惇 
は心配そうに見ながら「ちゃんと寝ておけよ」と言ったのでは無言でそれに頷いた。 
なんにせよ行かないのだから、関係ない。 
 再び箸を動かし始めたいつになく弱弱しい少女に後ろ髪を引かれる思いで、夏侯惇は部 
屋を出た。

***

 夏侯惇が向かったのは親友(悪友とも言うが)曹操が仕事場としている丞相府の一室で 
ある。それは仕事の為ではなく今宵の宴のこと、特にのことであろうが。曹操は初見 
からを気に入っていた。それは彼好みのほっそりとした美人だったからである。見た 
ときから「着痩せするほうであろう」などととんでもないことを口走り、千度の着物 
の下は豊満に違いないと全く持って破廉恥なことをうそぶくのである。夏侯惇にとって嘉 
弥は変わった娘であることに違いはなかったが、半ば同棲のような暮らしをしていると、 
年齢よりも大人びて見える言動とは別に非常に可愛らしい所があることにも気づき、今で 
は良き語り相手であり、気分が和らぐ安息の地のようなものであった。曹操のように己の 
欲望の対象としてを見たことは一度も無い。 
「あ、夏侯惇」 
「孟徳はいるな。入るぞ」 
 許緒が間延びした声で曹操さまと声を上げた。それと同時に夏侯惇が部屋に入ると曹操 
はなにやら書き付けていた物を男に渡していた。男が黙礼して出て行くと、彼は「ありゃ 
なんだ」と言った。 
「踊り子の衣裳についてだ」 
「真面目に答えろ」 
「儂はいたって真面目だ」 
 どうやら本気で言っているらしい親友から目を逸らしたが、にやにやしながら此方を見 
ているのが気になって直ぐに顔を上げた。言いたいことは分かっている。しかしこちらか 
ら言う気は毛頭無い。 
「ところで、に来るよう言ったか」 
「何のことだ」 
「しらばくれるなよ。今日が何の日か言っているだろう」 
「…」 
 何で自分がこんな目にあわなくてはならんのだと舌打ちをしつつ、夏侯惇は渋々答えた。 
「体調不良で昨日から仕事を休んでいる」 
「今日はどうなんだ」 
 この野郎、と曹操を一睨みする。対する彼はむしろそのような夏侯惇の行為を喜んでい 
るようだった。 
「駄目だ」 
「腰でも砕けたか」 
 からからと笑う親友に堪忍袋の緒が切れかけた夏侯惇は、引きつった笑みを浮かべなが 
ら、お前の腰を叩き切ってやろうかと言いかけて止めた。こういうときこそ冷静に対処し 
なければ相手の思う壺である。 
「とにかく、今日は行かん」 
「それはお前もか」 
「ああ」 
「お前にしろ張遼にしろ、付き合いの悪いやつだ」 
「張遼?」 
 こういう話をしているときに、他の人間の名が出てくることは稀であった。それも張遼 
が。最近、旧知の女官と出逢って彼女を屋敷で働かせているという話は風の噂で聞いたの 
だが、その女が若いのかそうで無いのかは知らない。 
「昔なじみの女官と仲良くやってるそうだ」 
「ふうん」 
「全く、そ知らぬ顔で女子を落とすような奴だったとは」 
「お前には関係ないだろう」 
 人の恋路を邪魔する、というよりは美しいと呼ばれる女とか、女ッ気のない部下に女が 
出来ると、決まって曹操は女を見たがった。美しい者なら既婚未婚問わず引っ張り込もう 
とするのだから、始末に終えない。 
「ある。女が出来たから宴に来んのではないか」 
「なら女も呼べば良いだろう」 
 曹操のペースに巻き込まれたようで少し不快だったが、言うべきことは言ったので、取 
りあえず話を会わせておかなければならない。 
「もう断られた」 
「じゃあ諦めるんだな。だいたいお前と違って張遼は真面目なんだ」 
「女の為に君主の誘いを断る奴の何が真面目だ」 
 このまま愚痴を聞かされるのはまっぴらごめんである。そうした夏侯惇の願いが通じた 
のか、失礼しますと声がして先ほどの男が戻ってきた。すると曹操は先ほどの不機嫌そう 
な気配から一変して、嬉しそうに「どうだった」と言った。男は夏侯惇を見て一寸言い難 
そうな顔をしたが、気を取り直して言った。 
「女たちはあれで良いとの事です。あと、殿への贈り物ですが…」 
「ちょっと待て」 
「なんだ」 
「贈り物とは何だ」 
「体調が悪いのなら仕方が無いが、今日の為に作らせた服だ。後で届けさせるから又の機 
会にでも着てくるよう言っといてくれ」 
「服だと?」 
「まあ帰って着せてやればわかる」 
 脱がすのから着せるのまでやってやれば良いと笑う曹操に、夏侯惇は一言「やかましい」 
と残して足早に立ち去った。 

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