胸のうちに溜まった不快なものを取り除くために、夏侯惇は誰か適当な手合わせ相手を
探していたのだが、初めに見つけたのが張遼だったので何となく気まずかった。張遼の方
ではそんな事を欠片も思っていないのだが。
「おう、張遼」
「どうも」
「…暇だったら手合わせして貰いたいのだが」
その時、張遼の眼がすこし驚いたように見開かれた事に夏侯惇は気づいた。何か先約が
あるらしい。それも、多分件の女官がらみの。
「いや、何か用があるなら良いぞ。相手は居るから」
「…すみません」
「いや、気にするな」
一礼して張遼が去っていくのを見届けると、夏侯惇は物騒なものをぶんぶん振り回しな
がら、次の獲物を見つけるためにぶらぶらし始めた。
なにやら声のする方へ行ってみると、そこでは従兄弟が弓の修練を行っていた。周りに
は四五人の若者が教えを受けているらしく、彼の話を傾聴していた。夏侯惇に気がついた
従兄弟がぱっと笑顔を見せたので、彼は去るに去れなくなってしまった。周りの兵士たち
に今日はここまでと言って帰らせると、嬉しそうに此方へやって来た。
「よう、惇兄。なんか用?」
「いや邪魔する気はなかったのだが…」
なんとなく歯切れの悪い言葉に夏侯淵は何かあったなと従兄弟の方を見る。仏頂面は相
変らずだが、少し困ったような顔をしている。
「となんかあったのか?」
「なんでそうなる」
疲れたような返事に、これは殿に相当いじられたなと苦笑する。これ以上突っ込むのは
あまりに不憫だったので、めでたい話題に切り替えた。
「そういや今日からお祭りなんだよな」
「ああ」
「惇兄は宴にいくのか?」
「いいや」
「ふーん…もし暇だったら、頼みたいことがあるんだけど」
「?なんだ」
「覇(長男・夏侯覇)と威(次男・夏侯威)がさ、祭りに連れてってくれって言うんだけ
どよ。俺は宴に出なくちゃなんねえし、かといって奥と行かせるのは心配でさ…よかった
ら連れてってやってくんないかなあ」
「おれと?」
「ああ。駄目だったらいいんだ」
「…いいだろう。だがお前も知ってる通りおれは人ごみが嫌いだ。あまり長い時間ついて
行ってはやれん。それでもいいか」
「ほんとか!ありがとう惇兄!あいつらもきっと喜ぶ」
子どものように喜ぶ従兄弟の姿を見て、彼は苦笑した。そして、折角行くのならに
土産の一つでも持って帰ってやろうと思った。
***
「お帰りなさいませ」
出迎えた女官の顔に驚きの色が全く見えないのは、長年仕えている女だからだろう。夏
侯惇はが小母さんのように慕っているこの女との付き合いも、かなりのものになるな
あとのんびり欠伸を漏らしていると、女は「さまは随分お暇そうですわ」と一言だけ
言った。彼は寝るように言っておいたのにと思ったが、どうせ自分もやる事が無いので彼
女が起きていて良かったと思わざるを得なかった。
着替えての部屋の前まで来ると、声を掛けた。中から掠れた声でどうぞと言う声が
すると、出来るだけ音を立てないように戸を開いた。そこには夜着の上から大き目の上着
を羽織っただけのがいた。夏侯惇はいつも思うのだが、この娘には少し羞恥心が欠落
しているのではないだろうか。それは彼女の時代との文化的相違なのかもしれないが、取
り合えず男性に対する警戒心は皆無と言ってよい。この前までは夜着のまま屋敷内をうろ
うろしていたのだが、それを見た夏侯惇がかなり言い聞かせて、させない様にした。そん
な格好でうろつく女を彼は妓楼しか知らない。
「起きていて大丈夫なのか」
「部屋の中でいるのは大丈夫です」
弱弱しく微笑み掛けてくる彼女の顔より、うすい布でくるまれた丸い胸元や裾からちら
りと見えるやけに白いくるぶしに目が行ってしまうのが悲しかった。頭の中では彼女を触
れることも出来ないような神聖なものとして扱っているつもりなのに、目の前にいると、
ただ美しい女を見ているときと同じような感情しか持てなかった。目を逸らしたが、
が立ち上がって上着を体に巻きつけたので、なんとか正視できそうだった。
「…孟徳さんのところに行って来たんですか」
「ああ」
「もう少し気分が良かったら行けたんですが…」
「いや、無理しなくて良い。ああいう所は苦手なんだろう」
「ええ、まあ」
「それに、いまに行かなくてよかったと思うだろうよ」
しばらくはきょとんとしていたが、なにやら下の方が騒がしくなってきたことに気
づいて、彼に目配せした。夏侯惇は頷いたが動く気配はなく、誰かがその騒ぎを伝えに来
るのを待っている様だった。ばたばたといくつかの足音がすると、「曹操様からのお届け
物です」という女の声がした。夏侯惇はそれを運ばせると、女達を部屋から出して、綺麗
な箱を開けた。そして顔を顰めた。はそれが自分への贈り物だと分かってはいたが、
夏侯惇が顔を顰めたのを見て、ゆっくり近づいた。箱の中には少し薄暗い部屋に輝きをも
たらすような、つやつやとした美しい着物が入っていた。それは彼女が今まで見たことの
無いような輝きを放ち、本か何かでしか見たことのない物だった。大変高価なものだとい
うことは、すぐに分かった。ともすれば滑り落ちてしまいそうな肌触りで、すこし着てみ
たいと思わないでもなかったが、襟元の豪華な、むしろやりすぎたような感が否めないそ
の細部にわたる刺繍が、彼女にはすこし大人過ぎるように見えた。
「これを着て出ろというわけですね…」
「送り返してやっても良いがな」
「送り返す?」はびっくりしたように言う。「送り返すって、元譲さん。折角頂いた
ものです。もらっておきましょう」
「お前が良いなら置いておけ。だがな、いつ何時それを着て来いと言われるか分からんぞ」
「五六年したら着れるかも知れません」
「五六年ね…」
その頃、彼女はどうなっているだろう。夏侯惇の頭の中に浮かんだのはがまだ此処
にいるかという事だった。何の前触れも無くこの時代に現れた彼女が、同じくして此処か
ら消えてしまっても、なんら不思議ではない。今日この瞬間彼女が消えてしまうかも分か
らないのだ。
嫌な想像から抜け出そうとして、大人になったを想像してみるのだが、出来なかっ
た。ここに来てからもう一年は経つが、彼女には何の変化も起こっていないように見える。
以前、私は死なないのかもしれないと言っていた事があるが、彼女の考え方でいけば年を
もとらないのかもしれない。
「まあ、そうしたいのならおれは何も言わん」
「はい」
「それと、寝るなら今のうちだぞ。昼を過ぎると五月蝿くなるだろうからな」
「何でですか」
「女たちが踊るのだ」
「踊る?」
元宵節には宮中では宮女たちが集団で地を踏み鳴らし歌をうたう”踏歌”が行われ、こ
の日を中心に町には色とりどりの灯籠が飾られる。そして、人々が一晩中灯籠現物に興じ
る夜祭が行われた。その為に、非番の兵士たちはこぞって町に繰り出し、稀に名だたる将
がお忍びで見物を楽しむこともある。夏侯惇などは特に出かけようと思わないが、が
見たいといったならば、何時でも案内をしてやろうと言う心の準備だけは万端であった。
「へえ、それは…」
「祭は数日間やっているから、見たいならはやく治すことだな」
は生返事をして、ごろんと横になった。さっきよりも少し顔が赤い。話をして気分
が高揚したのかもしれない。
「寝るか」
「ん…ちょっと寝ます」
「昼飯時に呼びに来る」
「はい」
夏侯惇の部屋は、の直ぐ隣であった。それは彼がを目の届かない部屋に置いて
おくのが何となく嫌だったからである。家人を信頼していないわけではないが、何が起こ
るか分からない。兎に角、彼女を傍においておかないと気が済まないのであった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
扉を閉めると、夜着ののことが頭に浮かんで来て、ぶんぶんと頭を振った。
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