二.
はこの隻眼の将軍が好きである。何がと問われれば、姿形、性格、態度、仕草…と
挙げるときりが無いぐらいである。なぜそんなに好きなのか自分にも分からないが、とに
もかくにもは夏侯元譲という男に焦がれていた。
今も、話を聞いて相槌を打ちながらも彼を盗み見ている。低くて耳に残る声、唇の端だ
けが少し上がる微笑み、射抜かれてしまいそうな力強い眼差し、精悍な顔立ち…ため息こ
そ出ないものの、見ているだけで幸せになってしまう。いつから自分はこんな風に彼を好
きになってしまったのだろうか。
(初めてお会いしたとき)
曹操が初めて夏侯惇に自分を紹介したときから、もう参ってしまっていたらしい。しか
し、彼ほどの実力の持ち主ならば、いくらでも相手は居るだろう。よもや自分がなどと、
おこがましい事は考えたことも無いが、胸を熱くするぐらいは許して欲しいと心の中で呟
く。
彼に出会ってから、には大きな変化があった。それは愛だの恋だのという話しでは
なく、仕事の面である。
曹操に召抱えられてしばらくの間、は依頼された物を自分の中で消化できずに、そ
の言葉通りの完璧な形として織り上げていた。初めのうちはそれでも良かった。曹操は何
も言わずに受け取ってくれるし、喜ばれこそすれ、その逆は一度も無かった。しかし、し
ばらくして曹操から新しく幕下に加わったある将の為に一つ頼まれて欲しいと言われた時、
初めて事細かな注文を受けた。それまではお前に任せるといったきりで大まかな案しか寄
越さなかった曹操が、その時言った言葉は今でも忘れられない。
桃の花がはらりはらりと舞い散るある春のこと。
「、今回は新たにわが軍に加わったある将の為に一つ頼まれて欲しい」
「かしこまりました。どのようなものをご所望でしょうか」
「ふむ。それがだな、少し言わせて貰うと…」
曹操が少し言いよどむと、をちらりと見て言葉を続けた。
「ここ何年かでお主の実力はだいたい分かった。儂はお主の作るものが好きだ」
「ありがたき幸せにございまする」
「まあ、そう畏まるな。ここからは注文をつけるからな。よく聞いてくれよ」
「注文、ですか」
「ああ。最近技術の方は随分上達したと思うのだが、どうもお主の作るものは冷たい。だ
いたい儂の思っている通りのものか、それ以上しか持ってこないが…それにはお主の気が
入っておらぬように思える」
機を織る間、お主は何を考えておる?と曹操が問えば、は思いもよらない問いに、
どう答えてよいか分からずに俯いてしまう。
「機を織るときのことをよく思い出してみろ。そのとき、何を思う?」
「機織の際…」
は規則正しい織機の音を思い出しながら、そっと目を瞑った。きっちりと編まれた
糸と規則正しく動く織機。織機の音以外は何も聞こえない、静かで清らかな時間。その時
私は何を思っているのだろうか…
「…何も」
「うん?」
「わたくし、なにも考えておりませぬ」
曹操は少し目を丸くしたが、すぐにそうかと答えて頬杖をついた。
「だから冷たいのだ。お主の気が入っていないから」
「曹さま、気というのはいかなる物なのですか?」
「そうむずかしく考えることもない。お主の感情じゃ」
「織物にわたくしの感情を入れろと仰るのですか」
としては、依頼主ではなく作り手の感情を入れるなど、という引け目がある。特に
この男の考えていることなぞ、一職人にすぎない自分に分かろう筈もないのだから。
「うむ。儂が何のためにお主に仕事を頼んでいるのか、それを察することができれば、お
主の物はもっと良くなると思うのだ」
「曹さまのお考えですか…しかし、わたくしごときに分かるものではありますまい」
「いや、分かる」
すっぱり言い切られて、は思わず顔を上げた。曹操はにやにやしながら此方を見て
いる。
「難しく考えすぎじゃ。此度の件もそうじゃ…儂は誰に送るといった?」
「…新しく加わられた方にと」
「そう。新参者の為に、なぜ儂がこんなことをすると思う」
「ご期待を寄せられているということでしょうか?」
曹操は分かるではないかと満足げに頷いた。
「では、そんな儂の心境を当ててみよ」
「……嬉しい?」
「そのままではないか…もっと、こう、何かに例えられんか」
の飾りっ気の無い言葉に苦笑しながら、長く気にかけていた者がやっときてくれた
のだ、と件の将について語った。
「…ということは、念願かなってやっとご家臣に、ということですか?」
「そうじゃ。あれを入れるのには長くかかったのう…」
曹操がはあ、とため息をつく。基本的に顔立ちが整っている男であるから、横を向いて
ため息をつくという仕草がなんとも自然で、もっと若いころであれば大層美しかったに違
いないとはぼんやりと考えた。
「で、儂の心境はわかったか」
「…このような事を言うのは気が引けるのですが…」
「よい。申してみよ」
が言いにくそうにもじもじし始めると、曹操はいよいよ嬉しくなってきて急かす。
おそらく彼女の考えていることは、ぴったり自分の心境を言い表してくれることだろう。
「その…好いた男に振り向いてもらえた女子のようです」
曹操はしてやったりと笑いながら、そうじゃ、と答えた。対するはいまいち腑に落
ちぬ顔で床を見つめる。
「と、いうわけだから、お主、此度の織物は好いた男のことを思いながら織れ」
「そのようなことを急に言われましても…」
は好いた男という言葉に反応して、ぎくっと体をこわばらせた。
「好いた男の一人や二人おるだろう」
「ふ、二人もいません!」
ふと頭の中をよぎった憧れの人を思うと、それ以外の人など想える筈もない。は反
射的に答えていた。ふうん、と曹操が楽しそうに笑いながら
「では一人はおるわけだ」
「あ、いえ、その、それは言葉の…」
「誰かとは聞かぬが、そやつを思って織ればよい。お主の様子を見るに、まだ振り向いて
もらえそうにないのだろう」
なぜそんな事まで分かるのか、とは口惜しいような恥ずかしいような思いに駆られ
たが、それ以上反撃しても墓穴を掘るだけだったので止めた。
次項