四.

 軍旗の話が出てから一月ほど経った。
 
 仕事を請け負ったとはいえ、軍旗という題材を織るには、持ち主になる夏侯惇がいなけ れば話にならない。軍旗の大きさ、形、色、文様、文字、こだわる所はいくらでも有るし、 なにしろどのようなものを造ればよいのか、には皆目検討がつかない。依頼されてか ら暫くして曹操に相談したは、彼から夏侯惇の屋敷に行くよう命じられた。
「将軍のお宅にですか」
「あれのだからな…聞かねば分かるまい。それに、職人が客の要望を聞くのなら、自ら出 向かねばなるまいて」
「は、はあ」
 それはそうなのだが、こちらも一応女である。自分にどういう噂が立とうと知ったこと ではないが、夏侯惇にあらぬ噂が立とうものなら、彼女は心苦しくて仕方がない。
「しかし、それでは将軍にいらぬ噂が立つのでは」
「噂?どんな?」
 不思議そうに聞き返してくる曹操に、は上手く伝えることが出来ない。
「その、わたくしも女ですので…」
「ああ、そういう事か。ふむ。確かにそうじゃな」
 うーん、と一回唸ると、すぐに声を切り替えて
「元譲が身を隠してお主の元へ行けば良いのではないか」
 と、のたまった。
「えッ!」
 さすがにそんな言葉を予測していなかったは、驚きのあまり瞬きもせずに曹操を見 つめた。
「お主の住いは元々人目につかぬような場所にあるじゃろ。それに不用意に人は入れぬよ うにしてあるから、あまり目に付かずに行けると思うのだが」
「しょ、将軍がお越しに」
「まあ、そう身構えるな。白湯でも出しておけばあやつは満足するから」
「わ、わたくし下女の類は雇っておりませんので…その、何もお出しできないのですが」
「それは都合がいい」
 にやっと笑って頷けば、は主の勝手ぶりに気が遠くなりそうだった。思わず夏侯惇 が来る前提で話をしてしまったが、よく考えてみれば、彼のほどの人間がわざわざ一職人 に過ぎない自分の宅に来るなど、ありえない話ではないか。
「曹さま、将軍にご足労頂くというのは」
「しかし、お主は元譲の元へ行くのは憚れるといっただろうに」
「左様ですが…しかし」
「よいよい。あやつもあの日は渋っておったが、心では楽しみにしておったのだ」
「そのようなこと…」
「これ照れるな。そんなことでは、まともに話もできんのではないか?」
 図星である。夏侯惇と二人で話をするなどという状況になったら、自分は緊張せずに話 などできる筈がない。嬉しすぎて死んでしまいそうだ。
「まあ、それだけ胸を膨らませておれば、出来上がりが楽しみだな」
 近いうちに向かわせる、とだけ告げると、曹操は奥へと引っ込んでしまった。


 ひん、と馬の嘶きが聞こえた。
 これで何回目だろうかと、はそれでも逸る心を抑えきれずに立ち上がり、白湯と盃 が用意されていることを確認して門へ向かった。
「御免。織姫どのはおられるか」
 織姫、というのは曹操がにつけたあだ名である。それを今回夏侯惇が来る際の合図 にしようと言われていたので、はただいま参りますと言って表へ出た。そこには若い 男と、少し後ろに夏侯惇が立っていた。
「お初にお目にかかります。使いの者で牽と申します。ご主人様をお連れしました」
 深々と頭を下げた若い男につられる様には礼をしたが、その後ろに控えている夏侯 惇の服が目の端に映って、思わず盗み見てしまう。
「ごくろうだった。先に帰ってくれ」
「かしこまりました」
 男が帰ると、夏侯惇は何とも気まずそうな顔で「突然参って申し訳ない」と挨拶も他所 に謝った。
「滅相も御座いません。なにもない家ですが、どうぞこちらへ」
 ここでくどくど謝罪をしあっていても仕方が無いと考えて、はにこやかに彼を案内 する。その笑顔は心の奥底から嬉しいと思える笑みであった。


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