五.

 曹操の言いつけどおり白湯のみを出して夏侯惇の反応を窺っていただったが、主の 言うとおり彼は謝礼だけをのべてそれを啜った。双方とも落ち着いた所で、先に口を開い たのはだった。
「早速ですが将軍、軍旗というものはいかほどの大きさなのでしょうか」
「うむ。孟徳に煩く言われてな、とりあえず調べてきたことをこれに記してある」
 袂から出された竹間には、軍旗の大きさ、一般的な形から色目、文様などがずらずらと 記されていた。は夏侯惇がいることも忘れて、食い入るようにそれを見た。いままで 軍旗についての資料など見たことが無かったので、非常に興味深い。
 感嘆の声を上げながら読み進めるを見て、夏侯惇は呆気に取られていたが、すぐに 微笑み混じりに
「お前はやはり職人なんだな」
「も、申し訳有りませぬ」
「いや、構わん。それだけ懸命に読んでくれると、調べた甲斐がある」
「将軍自らお調べいただいて…わたくしがしなければならない事ですのに」
「以外に楽しかったぞ。純粋な調べ物なぞ久しぶりにやったからな」
 からからと夏侯惇が笑うと、は顔が溶けてしまうのではないかと思うほどに頬が緩 んだ。こんなに間近で彼を見つめられるということを、今になって実感したのだ。
「では、後ほどゆっくり拝見させていただきます」
「ああ。それで、軍旗のことなのだが」
「はい」
「わが軍には夏侯の旗が二つある」
「存じ上げております」
 夏侯惇ではない夏侯の旗印といえば、弓の名手である夏侯淵を置いて他に無い。半ば世 捨て人のように邸宅に篭って織物をしているにも、その位の知識はあった。それに、 焦がれている夏侯惇の周りのことは、自然と耳に入れてしまうのである。
「それと見た目が被らないようにさえしてくれれば、俺はどんなものでも構わない」
「左様ですか…」
「それで、今の軍旗を持って来たから、参考にしてくれ」
 どこから取り出したのか、小さく折りたたまれた一塊の布を広げれば、ぼろぼろになっ てはいるが、かろうじて原型は留めている軍旗が姿を現した。この傷を見れば、彼の軍が どれだけの修羅場を潜り抜けてきたのか想像に難くない。この傷に触れることは、彼の傷 に触れることだろうか、それとも栄誉にふれることだろうかと、はふと考えたが、す ぐに止めた。
「形は…四角いほうが宜しゅうございますか」
「そうだな」
「飾りはいかが致しましょう」
「飾りは無くていい。一目で俺の軍だと分かるようにしてくれれば問題ない」
「かしこまりました。では、文字はどのように配置いたしましょう」
「そうだな…淵のやつが斜めだから、縦に書いてくれ」
「はい。では、縦にしますと今のような横長の形では収まりませんので、旗の形が縦長に なりますが、それでも宜しいですか」
「縦長か」
 すらすらと要望を述べていた夏侯惇が、そこになって立ち止まった。軍旗の形が違うこ と事態は問題ないのだが、縦長の軍旗という物を想像し切れずに詰ってしまったのだった。
「想像しにくいな」
「この旗を縦に置いてみてはいかがでしょう」
 が机の上の軍旗を縦長に配置する。想像しやすいように木の棒を旗の端に置いてみ ると、夏侯惇は「ふむ」と声を漏らした。
「これだけでも目立つな」
「形と色を他の物と少し変えるだけで、遠目から見ても目立つものになりますよ」
「そういうものか」
 はにっこり微笑むと
「どのような美酒でも、水に混ぜてしまうと飲まねば区別はつきませぬが、墨と水なら見 ただけで区別がつきます」
「それもそうだな」
 夏侯惇は机に置いた白湯を見つめながら、感慨深げに頷いた。


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