六.
「そういえば、恥ずかしい話なのだが…」
軍旗に関する話が一段落して、不意に夏侯惇が切り出した。
「織物というのはどうやって作るんだ?織機を使うということは知っているのだが…」
はきょとんとした顔で夏侯惇を見つめていたが、すぐに「では御覧になりますか」
と提案した。
「頼む」
が立ち上がり、彼を仕事場に案内する。決して広い家ではないが、生活の場と仕事
の場とは少し距離を置くために廊下を設けている。それは彼女なりの気分の切り替えであ
り、無理を言って曹操に作ってもらったものだ。
「恥ずかしい話だが…」
「殿方には無縁のものですから、ご存じないのも当然ですわ」
むしろ見てみたいと仰られたことがわたくしにとっては嬉しいです、とは満面の笑
顔で応えた。その他意のない表情に、自然と彼の頬も緩む。
「ここです」
がらんとした質素なつくりの部屋に、織機がぽつんと置いてある。その他には機織に使
うのであろう糸や道具の類が沢山置いてあるが、夏侯惇には何が何だか分からない。
「それか」
「はい。これで少しづつ織っていくのです」
そろりそろりと近づく彼に、は思わず笑ってしまいそうになるが、あまりにも興味
深げに見つめてくれるものだから、思わず
「織る所を御覧になられますか」
と言ってしまった。
「あ、いや、それはお前の邪魔になるだろう」
「いいえ。将軍に知っていただけるのならば、是非織らせていただきます」
「そうか?」
「はい」
「そうか…なら、一つ頼もうか」
「かしこまりました」
ではこちらに、とどこからとも無くは椅子を引っ張ってきて彼に勧めると、自身も
機織の前に腰掛けて、糸を確かめる。
「何かご説明致しましょうか」
「いや、構わない」
「わかりました」
すっ、とが息を吸い込んだ音が聞こえた。すると、心地よい音が部屋に響く。
踏み台によって上下に開かれた経糸(たていと)の間を、緯糸(よこいと)が通る音、
緯糸を手前に寄せ、経糸と緯糸を編みこむために力強く引かれる筬(おさ)の音。
かっしゃん、かっしゃん、かっしゃん、かっしゃん…
静かに繰り返される優しい音と、のまあるい背中を見つめていると、どうしようも
なく懐かしい思いがこみ上げてくる。これはどこで聞いたのだろうと思いを巡らせている
と、一定の間隔で奏でられるこの旋律は、心の臓のそれによく似ていた。しかし、それは
己の音ではなく、幼い頃母親に抱かれた際、その胸越しに聞いた音にである。
(こんな歳になっても、そのようなことは覚えているものか…)
温かい体越しに、ゆっくりと静かに聞こえてくる音。忘れようとしたとしても忘れるこ
となどできない、体に染みついている律動が思い起こされる。それはひどく心地のよいも
ので、ここが母の体の中のような安心感すら抱かせる。
窓から零れる温かい日差し。まだ肌寒さの残るひんやりとした空気が、日差しの温かさ
と混ざって、なんともいえない緩やかな気流を生み出しているようだ。
(機織…か…)
かっしゃん、かっしゃん、かっしゃん、かっしゃん…
の背中が霧の向こうに消えそうになる。あっと思って立ち上がろうとするが、心地
よい旋律のためか、力が抜けて、目の前が霞んだ。
温かい日差しを受けているような感覚に、いつしか夏侯惇は瞼を閉じていた。
「将軍、将軍」
ここちよい機織の音が消え、明るい声が耳に響く。
「随分と時が経ってしまいました。お帰りになられた方が」
がばりと起き上がった夏侯惇は、がよろけたことにも気付かないほど焦っていた。
「もう日が暮れたか」
「先ほど日が落ちた所でございます」
「そうか」
日が暮れて夜になっていたらどうしようかと思っていたので、まだ日が暮れてすぐだと
いうことに、とりあえず胸をなでおろした。あまり遅いと家人が心配するだろうし、女の
家に遅くまでいるなどあってはならないことだ。
「すまんな。すっかり寝てしまったようだ」
「いいえ。わたくしこそ織ることに夢中になってしまって…申し訳御座いません」
「いや。しかし少しとはいえ機織を見ることができて面白かった」
「そう言っていただけると光栄です」
が緊張の糸を解いて、ふんわり笑うと、夏侯惇は言いにくそうに押し黙って、彼女
の顔を見た。
「…」
「あの、いかがなされました」
「い、いや、その…折角の機会を自分でつぶしておいて何なのだが」
「はい」
「…また来ても?」
は傍目から見ても分かるほど赤くなって、無言で頷いた。
次項