八.

「ああ、将軍。いらっしゃいませ」
 いつも通りにが門まで迎えに来てくれると、夏侯惇は先日曹操がうそぶいた事を思 い出して、上手く言葉が出なかった。
「あと十日ほどと言っていたのですが…どうも張り切ってしまいまして、三日ほどで出来 そうになりました」
 いそいそと居間に案内したは、白湯を出して興奮気味に話す。
「三日か!すごいな」
「張り切りすぎました」
 照れるを見ながら、あと三日という言葉を繰り返す。三日に一度彼女を訪れるよう になって一月程になるが、その付き合いも今度の訪問で終わろうとしている。曹操の言う とおり、仕事が終わっても、機織を見せてくれだの何だのと頼めば、は快く会ってく れるだろう。そんなことは分かっている。問題は、彼女が自分を好いてくれているのかど うか、ということだった。曹操の話しからすれば、肯定的に考えても良さそうなものだが、 直接聞いたわけではないので分からないし、惚れた腫れたの話など、風にたなびく雲のよ うなものである。
 しかし、そうは言っても自分は彼女が気になって仕方が無い。
 軍旗のことで何度も話し合ううちに、の世界の広さ、優しさ、厳しさに触れた。そ れは彼女のほんの一部のことなのかもしれないが、それに触れた自分は、その豊かさに相 当参ってしまったらしい。
 自分の能力を知り、それが何たるかを悟り、誰のために為すのかを、全て己で行ってい る聡明さ。華美を好まず、必要なものだけを側においていつまでも愛でることのできる性 格。優しい声、やわらかい微笑み、取った手の温かさ…

「将軍?今日も織機を御覧になります?」
 せせらぎのような涼やかな声も、彼の好む所であった。
「…あ、ああ。頼む」
 夏侯惇は思わず見とれてしまっていたことに、自分でも驚きながら立ち上がった。こん なに思いを積もらせているのに、なぜ一言が言えないのだろうか。
「ほら、こんなに」
 が織機を指差すと、織りかけの軍旗がそこに広がっていた。確かに半分以上織り上 げてあって、もう少しで端まで届きそうだった。
「おお、凄いな」
「もうすぐ織り上げてしまいますから」
 そう言っては笑ったが、次の瞬間には少し残念そうに
「戦が近うございますものね」
「そうだな…なに、新しい軍旗で意気揚々と出陣できるのだ。俺はついてる」
 たいした戦ではない。しかし、だからと言って生きて帰ってこられる可能性はいつも無 い訳ではない。そういう戦こそ、気を張って着実に終わらせる。それが夏侯惇の考えであ り、生き残る術だった。
「そんな顔をするな。この身と共にお前の旗を持って帰ってくるさ。それに、そんなに長 引く戦ではなさそうだから」
 よしよしと子どものように頭を撫でてやると、はその手を取って、細いがしっかり とした掌で包んだ。
「…」
?」
 手を握られて柄にも無く心を昂ぶらせていた夏侯惇だったが、が顔を俯けてしまっ たので、手持ち無沙汰になった片手をぎゅっと握った。
「…お待ちしております」
 搾り出すように放たれた言葉に、彼はその小さい体を折れんばかりに抱きしめようとし た。しかし、彼女がぱっと身を翻して部屋の奥へ行ったので、右足が一歩先に出てしまっ たままの格好で固まった。
「あの、将軍」
「なんだ」
 右足を急いで引っ込めて答えると、藍色の布を持ったがはにかみながら「これを」 と言って藍色を差し出してきた。
「これは?」
「初めて将軍がこの部屋にお越しになった時、将軍はお休みに、わたくしは夢中になって 機を織っていました」
 つい昨日のことのように思い出された光景に、夏侯惇は少し恥ずかしくなりながら藍色 を受け取る。
「そいつがこれなのか」
「はい。あの時織っていたものです。織り始めると楽しくなってしまって、機会を下さっ た将軍に是非お渡ししたいと思いまして…お目に適う物かは分かりませんが…」
「ふむ。それで、こいつは何なんだ?」
 ばさりと藍色を広げると、ぐらいならすっぽりと包んでしまえるぐらいの大きさが あり、よく見れば単色ではなく、様々な蒼がちりばめられて織り込まれていて、光にあて ると大海原のように雄大な波が生まれる。
「防寒具です。砂塵を避けるのにも使えます」
 少しぐらいの雨ならしのげますよ、とは彼の手から藍色を取って、それを掛けてや る。長さと幅はたっぷりあるので、首元で何回か巻きつけても、前で結んでしまっても良 い。丈はちょうど膝下辺りまであって、邪魔にならない長さである。
「ほお!思ったより軽いな。それに動きやすい」
「喜んでいただけて光栄です」
「この色もいいな。好きな色だ」
 本当にこれを貰っていいのかと問えば、は先ほどの憂鬱もどこへやら、満面の笑み で頷いた。
「では、ありがたく頂戴する」
「はい。是非それもお供に加えてやってくださいませ」
 そう言って柔らかく微笑んだに、今度ばかりは辛抱溜まらず、ぎゅうと抱きしめて しまった。柔らかくて、温かい感触に、思わずこみ上げてくる衝動は抑えつつ、夏侯惇は ただただ早くに帰ってこようと思ったのであった。


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