九.

 夏侯惇が軍旗を取りに来てから、かれこれ二月は経った。
 は軍旗の依頼が果たされるや否や、曹操から新たな依頼を受けていた。しかし、そ れはかなり大掛かりな仕事だったので、構想を練るにも時間がかかり、二月経っても織機 を動かせずにいた。
「どうじゃ、進んでおるか」
「申し訳有りません…まだ、考えておりまして」
「ふむ。まあ、あせらずとも良いが…そんなに悩むのは久しぶりだな」
 頭を垂れたままの状態で固まっているに、顔を上げるよういいながら、曹操は彼女 の顔を見た。
「うわっ、お主、鏡を見たか」
「なんのことですか」
「随分顔色が悪いじゃないか…それに目の下が真っ黒だぞ」
 寝不足か、と問われて、は考える。そういえば最近は、予定より帰りが遅い彼のこ とばかり考えていて、あまり眠っていない。しかし、寝ようと思っても心配で居ても立っ てもいられないし、かといって仕事を放棄するわけにも行かず、昼も夜も活動しているの だ。
「そんなに考えているのか」
「…はい」
 直接の原因は依頼のことではないので、少し答えにくい。
「確かに、元譲たちは遅いな」
「はい…」
 答えてから、は思考をめぐらせる。元譲といえば、夏侯惇の字である。いま主が言 った寝不足の原因は、依頼のことではなかったのか。
「え、あの、曹さま」
「一月もあれば片付くといって、もう二月か。一応遣いは来ておるから心配はないが、会 う日取りが狂うのは辛いのう」
 うんうんと力強く頷いている曹操に、は顔を赤くして押し黙った。
「軍旗の前になにか元譲にやったようだが、随分喜んでいたぞ。あの鬼将軍が笑顔だと不 気味がられるほどにの」
「ぶ、不気味とは」
 なんたる言い草、と反論しようとして止めた。そんなことをしても墓穴を掘るだけであ る。
「いやあ、あれはなかなか良い物だな。それに、お主が仕事以外で物を作るとは思わなん だ」
「そ、それは…」
「よいよい。そこまで進んでおるのなら、浮いた話ぐらい出たのか」
「い、いいえ。そんなことは全く」
 それを聞いた曹操はひどくがっかりして肩を落とす。
「お主、元譲が好きなんだろう」
「…」
 そんなこと、恥ずかしくていえる訳が無い。はますます赤くなって俯いてしまう。
「元譲もお主のことが好きだ。たぶん…いや、絶対かな」
「そ、そのような」
「いや、ある。ああもう、なぜそこまで出掛かっておるのに話しが進まんのだ?普通は戦 の前にそういう約定は交わしておくものだろう」
「約定?」
 きょとんとした顔のに曹操はげんなりする。なぜここまで焦がれていて、そういう 方面に話が進まないのか、彼には到底理解できない。好きだと思った相手は、その時に捕 まえて置かないと、いつ居なくなってしまうか分からないのだ。戦と同じで、好期を逃し てしまうと、いくら近くに居ても、生涯を共にすることは出来ない。
「婚儀のことは」
「な、な」
「ないのか」
 こくんと頷くと、盛大なため息が耳につく。そんな事を言われても、それはからす るような話しではないし、かといって夏侯惇にその気があるのかも、言われてみると分ら ない。確かに、嫌われては居ないだろうし、それは自覚がある。しかし、だからと言って 彼の妻になどと、調子の良いことになるだろうか?
(そのようなこと、考えるのもおこがましい…)
 では、あの抱擁はなんだったのか。あの時のことを思い出すと、今でも胸も体もかっと 熱くなる。不意に引き寄せられた力強い腕、焼けるような熱さを置くに秘めているのであ ろう固い体。思い出すたびに胸が高鳴り、顔が熱くなる。
(何も無いのに、あんなことするのかしら…)
 嗚呼、なんておこがましい!
 職人風情が将軍の妻になど、想像するのも憚られる。はどうしても彼と自分を結び つけて考えることができない。住む世界が違う。感じている世界が違う。どうしたって交 わらない筈の二人なのに、どうして交わってしまったのか。
 胸を焦がしていた熱が、音を立てて冷めてしまう。彼との夢のような日々も、夢の中だ から甘美だと思われたが、今思うと、それが本当にあったのかどうかすら解らないほどに、 薄ぼんやりとした霧の向こうのものに見える。
「おい、
「は、はい」
「ひどい顔になっとるぞ」
「あ、いえ…」
 真っ赤だった顔が、どんどん白くなっていくのを見て、曹操はなんとなく察していた。 この生真面目な娘のことだから、どうしようもない事で悩んでいるのだろうという事ぐら いは。
「何を考えとったのかはしらんが、大方、身分のことだろう?」
「…」
「そんなものは関係ない。お主も身分であやつを見ている訳ではあるまい」
「それは」
 そんなこと、あるはずがない、との瞳は雄弁に語っている。
「それと同じで、あやつもお主のことが好きじゃ。誰でも彼でもそうではないぞ。しかし、 元譲は儂から見てもそんな事をいちいち気に止める男ではない。それは約束できる」
「曹さま…」
「なぜもっと自信を持たない。お主は美しい。見た目だけの話しでは無い。儂はその心が 好きで雇っておるのだから」
 曹操は真面目な顔でそう言うと、また顔を赤くし始めたを見て、その顔を一変させ る。
「赤くなったり青くなったり忙しいやつだな」
 けらけら笑い、をひときしりからかうと、よしと声を上げて膝を打った。
「そんな様子では仕事にも身が入るまい。ここはいっそその気持ちを相手に届けてみては どうじゃ」
「届ける?」
「そうじゃ。お主のその腕で、その思いを織ってみよ。なあに、題材は儂が与えてやるか ら、好きなようにやれ」
 しかし期限は五日、と付け加え、机から筆と竹を取り出してなにやら書きつけ始めた。
「これを織ってまいれ」
 そういって差し出された竹簡を受け取るや否や、は部屋から追い出されてしまった。


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