十.
迢迢牽牛星 迢迢(ちょうちょう)たる牽牛星
皎皎河漢女 皎皎(きょうきょう)たる河漢(かかん)の女(じょ)
繊繊擢素手 繊繊(せんせん)として素手(そしゅ)を擢(あ)げ
札札弄機杼 札札(さつさつ)として機杼(きちょ)を弄(ろう)す
終日不成章 終日章(あや)を成(な)さず
泣涕零如雨 泣涕(きゅうてい)零(お)つること雨の如し
河漢清且淺 河漢清く且つ淺(あさ)し
相去復幾許 相去(あいさる)こと復た幾許(いくばく)ぞ
盈盈一水間 盈盈(えいえい)たる一水の間(かん)
脈脈不得語 脈脈として語るを得ず
「将軍、お返事はいかが致しましょうか」
「…」
「将軍?」
便りを受け取ったまま固まっている夏侯惇を見て、兵士が怪訝な視線を送る。差出人は
曹操のはずなのだが、将軍が持っているのは色鮮やかな一枚の布。しかもそれをみて彼は
固まっている。
「将軍、お返しになられるなら私はここで待たせていただきますが」
「…あ、ああ。ちょっと待ってくれ」
がたがたと床机を引いてきて、夏侯惇は興奮冷めやらぬ様子で筆を取る。兵士は一礼し
て天幕から出て行った。すると彼は、竹簡を取り上げ、膝に乗せた布に目をやりながら、
それを読み上げる。
「迢迢(ちょうちょう)たる牽牛星」
壷に筆を突っ込んで、筆を濡らす。
「皎皎(きょうきょう)たる河漢(かかん)の女(じょ)」
筆を持ったまま顎に手をやるが、読み上げるのは忘れない。
「繊繊(せんせん)として素手(そしゅ)を擢(あ)げ」
は今頃どうしているだろうと思いを馳せる。
「札札(さつさつ)として機杼(きちょ)を弄(ろう)す」
差出人は友人だが、この美しい布は彼女の手作り。
「終日章(あや)を成(な)さず」
いったいこの詩に何を込めているのか。
「泣涕(きゅうてい)零(お)つること雨の如し」
軍旗を見るたびに思い出す、あのひと時。
「河漢清く且つ淺(あさ)し」
竹簡を持ち直して筆を滑らせる。
「相去(あいさる)こと復た幾許(いくばく)ぞ」
馬を走らせればすぐにでも会いに行けるけれど。
「盈盈(えいえい)たる一水の間(かん)」
盤上の駒がそれを許さず。
「脈脈として語るを得ず」
貴女の織物を眺めることしか出来ない。
「これを届けてくれ」
天幕の外に居た遣いの男が短く返事をして、駆け出した。
空を見れば、たなびく雲と蒼い空。なんとも気持ちのいい日和である。こんな煩わしい
ものが無ければ、彼女と語り合えたものを、と思わずにはいられない。
机の上にきちんと畳まれている藍色を取り身の纏うと、天幕の外に出る。心地よい風に、
縦長の軍旗がはためいていた。
「惚れた腫れたはたなびく雲のよう…」
ぽつりと呟いた言葉に、彼は自分の言葉ながら笑みを隠せない。
「俺はお前を捕まえられたみたいだな」
いや、俺が捕まえられたのか、と一人ごちると、びゅうと大きな風が吹き、彼の藍色は
蒼い蒼い海になった。
「将軍」
「うん?」
いつの間にか荀攸が側に立っていた。聞かれていたかと思うと恥ずかしいが、気にして
も仕方が無いので止めた。
「良い風が出ていますから、作戦を変えたほうが宜しいでしょう」
はためく軍旗に目をやると、昨日とは違う方へ風が向かっている。追い風だった。
「そうか…」
「できれば無駄なことはしたくありませんから、最小限で勝てる作戦を」
意味ありげな視線を送ってくる荀攸に、夏侯惇は小さい彼を見下ろし「聞かせてもらお
うか」と言って、天幕へ入っていった。
遠くはるかに輝く彦星
白く清らかに輝く織姫星
織姫は、か細い白い手をあげて
カタカタとはたの緯糸を通している
でも、一日中織っているのに、模様ができあがらない
彦星を思うと涙が雨のように落ちる
天の川は清らかで浅い
距離もこれくらいというほど近い
けれど、水が満ち溢れている一本の川を隔てて
たがいにじっと見つめあうばかりで語り合うこともできないでいる
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