軍靴の響きとは違う、軽やかな沓の音が辺りに響く。夏侯惇に昼食を告げられたは
その音のもとを探そうと欄干に寄り掛かって見たが、何も見えなかった。回廊を歩き、部
屋に入ると夏侯惇が座っていて、料理が運ばれてきていた。は口当たりのよさそうな
ものだけを食べた。好き嫌いしてはいけませんと教わったが、ここではそんなことを忘れ
て仕舞うほど自由だった。夏侯惇も何も言わずに食べた。二人の食事には話し声というも
のが無い。双方とも、やかましいのは嫌いであるし、おしゃべりと言うわけでもない。初
めの内は夏侯惇もも互いに気を使いあって、何か話の種を蒔いては、目が出る前に摘
み取ってしまっていたのだが、一年も共に暮らせば分かり合っている部分も多く、この静
寂を楽しむようにまでなっていた。
は自分が食べ終わってから夏侯惇の方を見たが、彼はまだ食べている途中だったの
で、ちびちび白湯(さゆ)を啜っていた。ぼんやりする頭の中で考えていたのは、先ほど
の贈り物のことである。よもや仕事にあれを着て来いと言われることは無いだろうが、次
の宴会か何かで着せられることは、火を見るより明らかであった。やはり夏侯惇の言うと
おり送り返してしまうのが無難だろうか。しかし折角貰ったものを送り返すというのも失
礼な話である。考え込んでいるに、食事を終えた夏侯惇が声を掛けた。それが急だっ
たので、危うく白湯を零すところだった。
「…何ですか?」
「今夜、淵のところの童(わっぱ)どもと祭りに行くことになった」
「あら、それは」
夏侯淵のところの子どもとなると、彼にとっては甥っ子のようなものであろう。それを
童と言うのはいかにも彼らしい言い方である。子どもが話題になって、いくらかは表
情を和らげた。いつの時代も、子どもは可愛いものである。
「いくつなんですか?」
「ん?…長男坊が十二で、次男坊が五つだったかな…」
「いいですね」
普段と異なり、惜しげもなく笑顔を披露してくれるに夏侯惇の顔は緩みっぱなしだ
が、それに劣らずの顔も緩んでいた。普段口元だけで笑うことはあれど、相貌を崩す
ということが無いこの少女の笑顔はある意味貴重なもので、それを見たものは数えるほど
しか居ない。
「いいなあ、私も元気だったら一緒に行きたかった」
昼寝前の生返事とは一変して、が行きたいと言った事に夏侯惇は多少驚いていたが
それは童どもが居るせいだとすぐに分かった。もしが一緒に来たならば、さぞかし仲
の良い家族に見えただろうにと想像する。そして自分がとんでもない妄想をしていた事に
気づいて、少し赤面した。
「ま、祭りはしばらくあると言ったろう。早く治せば連れてってやるぞ」
はそれに笑顔で答えただけだったが、先ほどよりは良い返事が得られたような気が
する。何処から湧いてくるのかわからない自信に満ちた夏侯惇は、非常に上機嫌であった。
「なにか土産を買ってこようと思うのだが…欲しいものはあるか」
「え?お土産ですか?」
「ああいう所に出ている店だからな、あまり良いものは期待できんが」
「んー…お祭りでは灯籠を飾ってるんですよね」
「ああ」
「じゃあお屋敷のどこかに飾れるような灯籠があったら、それをお願いします」
「ふむ…分かった」
灯籠ならその辺りの出店に置いているだろう。夏侯惇は土産物・灯籠と記憶すると、出
来るだけ良さそうな物を買ってきて、彼女を喜ばせてやろうという事ばかり考えていた。
***
「伯父上、よろしくお願いします」
「します!」
晩になって屋敷の外に出てみると、弟にお辞儀をさせながら自らも頭を垂れている少年
がいた。従者は夏侯惇に一礼して去っていく。彼は幼い二人を見ながら、では行くぞと言
って、意気揚々と歩き出した。
彼が外出したがらないのは、彼自身騒がしいところが嫌いだという事と、隻眼のことで
あった。誰だって自分の体のことで、人によからぬ噂を立てられるのを良しとはしないだ
ろう。殊に彼は目のことを気にしていて、今日も目深に笠を被っていた。まだ幼いこの兄
弟も、それについては父から聞かされているのか、伯父が笠を被ることに何も疑問を持た
なかった。
まだ五つの威はよっぽど嬉しいらしく、満面の笑みを湛えて兄にくっついていた。兄の
覇は弟とはぐれない様に、町に着く前から手を握っていた。
「あにうえ、とうろうはいくつあるの?」
「え?いくつって、沢山だよ」
「たくさん?…たくさんって、いくつなの?」
早いうちから愚図り出した弟に、兄はほとほと手を焼いている様子だった。それを微笑
みながら見ていた夏侯惇は、時折振り返っては威が泣き出しやしないか確認しながら歩い
た。
「ねえ、いくつ?」
「兄上はしらない。気になるんなら自分でお数え」
腰にしがみついて答えを要求する弟を引き離しながら、覇は少し歩調を速め、夏侯惇の
横につけた。そう言いながら、彼の顔にも笑顔があったので、夏侯惇は初めてなのかと聞
いた。
「僕も弟も一昨年に来ているんです。でも、威はまだ小さかったから今回が初めてみたい
なものです」
あの時は父上と一緒に来て、母上の為に色々買い物をしたんです、と言う長男坊は十過
ぎには見えないほどしっかりしていた。伯父と出かけることで少し緊張はしているのだろ
うが、それを除いてもよく出来た息子だと思った。
「おじうえ!いっしょにかぞえよ!」
小走りでやって来た次男坊は、彼と手を繋ぎたいらしく腕をばたばたさせていたが、伯
父が小さな手を握ってやると嬉しそうに笑った。まだまだ甘えたい盛りなのだろう。
「ほら威、ご覧。町が見えてきたよ」
「すごい。いっぱいひかってる」
「…数える準備は出来たのか?」
「あ、うん。おじうえはそっちをかぞえてね。ぼくはこっちをかぞえるから」
苦笑しながらおうと答えた夏侯惇は、人ごみの中ではぐれない様に覇とも手を繋いだ。
嫌がるかと思ったが、意外と素直だった。しかし、俯いていて、少し恥ずかしいようだっ
た。次男坊が威勢よく灯籠を数え始めると、夏侯惇も数え始めた。
祭りは盛況に行われており、かなりの人ごみだった。一昨年よりも多いのではないかと
覇は言った。夏侯惇は握る力を強くしたが、威の力は思ったよりも強くて二三度手放しそ
うになった程であった。
「おい、威。ちょっと落ち着け」
「だって、まだむこうにもあるんだよ」
「心配せんでも灯籠は逃げん」
「威。伯父上の言うとおりだ。それに、そんな事言ってるうちに数を忘れるぞ」
「え?…え?いまいくつだっけ?」
「それ見ろ」
からからと笑う伯父に、威はむすっとして言い返す。
「おじうえだって、いまいくつかわかってるの?」
「おれはちゃんと数えてるぞ。ほれ、次ので三十六だ」
「え!」
「ほら、威。次のが見えたぞ」
「わかんないよ。いくつめ?」
おろおろする弟に、兄は対になって飾ってあるのだから、伯父上の数とお前の数とは同
じだと助け舟を出した。夏侯惇はからかい半分で覇に言うなよと言った。このような少し
いけずな所が、父上とは違うなあと長男坊は思っていた。
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